haibisu1.jpgハイビスカス

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1983年(昭和58年)11月、46才のとき脳出血で倒れました。
それから、知らない内に手術をされていました。(手術、感謝しています)
冥土の大王から、右半身マヒと失語症の後遺症をプレゼントされてしまいましたが、「もう、ひと働きをしてもいいだろう」と言われたのか、ここに帰って来たのです。
八ヶ月間、入院生活を体験し、病院がいやでいやでしょうがなくて、医者が「もう少し、いてもいいよ」と言っていたのですが、ほうほうの態で退院して来ました。
家に帰って来たのですが、体は不自由の上、言葉がままならず、頭だけは焦っていたのです。
「さーてと・・・、何をしようかナ」と考え、趣味でやり始めていたパソコンの将来を予感したのか、持っていたレベル3(8ビット機)を引っ張り出してみました。

その頃、アセンブラは、ちんぷんかんぷん。MS-DOSがやっと出た頃で、BASICだけが頼みの綱でした。
しかし、言葉が喋れなくなって日本語でさえ使えなくなってしまったのに、 パソコンを使うのに言語、言語と言われても、猫に小判の状態でした。
その上、当時は本も少なかったし、この体で教室に通うことも不可能でした。
何しろ、46年間使った筈である日本語に精一杯だったのです。

3年間の休職期間のあいだに、BASICが組めるようになったのですが、言葉、そう、日本語については、手術した病院からリハビリ専門の病院に転院したときに、忘れられない思い出があります。
私は、言葉が自由に喋れないのは,まだ「手術したばかりだからなのだ」と信じていました。
その頃の文章の中に、次のように書いています。

−−私は右半身がマヒである。
七沢で入院するとき、医者の問診があった。
医者が身に付けていたものをベットの上に並べてテストしたのである。
ベットの上には、ボールペン、万年筆、定期券、百円硬貨などが並べられたのである。
最初の品物は言えた。「ボールペン。」
その次は、万年筆である。
そう言った筈なのに、耳が聞いた言葉は、「ボールペン。」
定期券のときも、「ボールペン。」
みんな笑った。心で泣いた。
転院に付いて来た次兄が、真っ赤になって部屋を出ていった。−−

とあります。
あれから、もう15年になります。

ソロバンに毛が生えたような計算器から、データ処理をする計算機へ、そして情報発信する機器として進化して行くパソコンを仕事の相棒にしてきて思うことは、「私即ち失語症患者にとってパソコンは、社会復帰の武器」でありました。
今後、更に進化してより良い道具に変わって行くのを見守って行きたいと思っています。

次回からは、パソコンに助けられ、社会復帰し、自立したことを中心に、 病後書き溜めた文や、東京都江東区で作った「すずめの会(失語症の人の会)」(1985年−1994年)の会報で発表した文章などに、手を入れながら書いていきたいと思っています。



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最終更新日: 1998/08/07