失語症記念館
交差点

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生きているのがうれしい〜!

福間 清子
島根県出雲市在住

           

2006年 06月:

 「清ちゃん、帰ったよ〜・今日はなんとも無かったかねぇ〜!」と、発病後7年経った今でも、主人はいつもこのように言って会社から帰ってきますが、我が家の御隠居様・89歳のおじいさんの部屋からは、「清子さ〜ん、ご飯はまんだかいねぇ〜・腹がへったがねぇ〜!」と、声が飛んできます。
この二人の男性に囲まれ、頼りにされている私は、平成10年9月・突然脳内出血で倒れ左半身麻痺の「清子さん」なのです。
ここから清子さんの「左半身麻痺の体」での奮戦記「生きているのが嬉しい〜!!」が始まります。
 1・突然の発病
平成10年9月、主人と二人でコンバインを操作し、稲刈真っ最中のお昼ご飯時、我が家で突然倒れたのです。
長い眠りから目覚めると左半身は全く動かず、よだれ「たらたら〜」・・・。
一体自分の身に何が起きたのか全く分からず「ぼわ〜ん」としているだけでした。
全く一歩も歩く事の出来ない私は、リハビリの為、リハビリ専門病院へ転院が決まり、先生が言われた「必ず歩けるようになるよ!」と言う言葉に大きな夢を託し、苦しくても頑張れば歩けるようになる・・と夢一杯で転院しました。

軽く考えていた私の病気は、それはそれは大変重症で、世間で一般に言われる「障害者」と呼ばれる程の、後遺症が残る病気だったのです。
リハビリ専門病院で目の当たりに見た入院患者さんの光景は、私にとりまして強い衝撃と共に、将来への悲観・不安・心配へと変り、心の動揺を抑えることなど到底できる余裕も無く、涙が止めどもなく流れ出ました。
誰が教えてくれた訳でもないのに、この歩けない・手が動かない状態、・そして廻りの状況、先生の言葉から察してあきらかに「障害者」になったということが自分自身の判断で分かったのです。
障害者になるなんていやだぁ〜と言って主人をせめました。いくらお金を出してもいい・借金してでも治したい!・二本の足で歩きたい!・誰か助けて〜治したい気持ちで一杯でした。
本当に「わらにもすがりたい」とは、まさにこの事だと思いました。
「障害者の道という未知の世界は」どのような道だろうと思うと、もう不安と心配で一睡も出来ず、精神的衝撃は例えようもないほど大きく、揺れに揺れたのです。
病気になる前は、夢などほとんど見たことが無かったのですが、なぜか、毎晩夢を見るようになったのです。
毎晩見る夢の中の私は、元気に歩いているではありませんか・・・。
「わ〜、嬉しい〜歩けるようになった〜」と言って、さっそうと歩いているのです。
はっとして、寝たままで、左手・左足を触ってみると、ずしりと重く動かない手足があるのです。
あ〜夢だったのか、正夢であって欲しかったと何度思ったことでしょう。
また、NHKラジオの「ラジオ深夜便」と言う番組に、どれほど励まされ・癒され・元気を頂いたことでしょう。
この、番組の挿入歌を聴くと、心がとてもなごみ・癒され・自分の体が全く動かない事を忘れてしまうのです。
心がとても穏やかになり、今の自分、将来の自分を冷静に考えると、いつしか一筋の涙が流れているのです。
いつ頃から歩けるのだろうか、いや、歩く事が出来るようになるのだろうか、そして、退院してからの家庭生活・会社への復職・社会への復帰など、心配ごとが山積していたのです。
とにかく、時間は掛かっても「歩けるようになり・手も動かす事が出来るようになる」と言う確証が欲しかったのです。
また、病院で障害者手帳を手にした時は、障害者という「レッテル」を貼られたような気がし、同じ人間でありながら差別を受けているように思われ「私達は、もう、まともな人間じゃないのだ」と、相当ひがんだ時もありました。
たった一瞬の出来事が、こんなにも人間を大きく左右する状態になろうとは、予想もしなかったことだけに、精神的衝撃は、それは大きいものでした。
精神的衝撃があまりにも大きすぎて、声も出なくなり、車椅子をこぐ事も、右手での文字書き等・何も出来なくなりどん底の、どん底でした。
また、毎日涙・涙の私は、病棟でも「泣き虫の福間さん」と言われ、いつしか泣き虫で有名になっていました。
 2・病気の連続
一歩も歩けない私に、次から次へと病気が押し寄せてきたのです。
平成11年4月、肺炎を患い40度近い高熱が一週間続いた時は、体の不自由さを痛感したと同時に、「どうして神様は、こんなに苦しめるのだろう」と思いました。
平成11年7月、子宮筋腫を患い松江日赤へ緊急搬送・即手術・・いくら頑張る事が大好きな私も、さすがに生きる望みを失い這い上がる元気・勇気もなく、自殺する事ばかり毎日考え、また、泣き虫の私になっていたのです。
そんな時、隠岐から来ておられた道下さんという部屋の仲間に「福間さんも頑張らんといけんよ・みんな頑張っとーけんねー!!」と励ましの言葉を掛けてもらったのが嬉しく、その後、絶大なる信頼をおき、何でも気軽に相談させてもらうようになりました。
道下さんの励ましの言葉は、脳内出血で倒れて以来、部屋の患者同士としては、はじめての励ましの言葉だったのです。
部屋の人は子宮ガンの人が多かったのですが、いつも笑い声が絶えず、いつしか私も、泣く事を止め笑う私になっていたのです。
今まで、泣いてばかりいた私は、発病後始めてお腹を抱えて笑いました。

この笑いが、私の体の中の「もやもや」を全て取り払ってくれたと同時に、笑いの重要性を始めて知り、元気な時の私に戻り「いつも明るく笑顔一杯・元気で行動力のある私」になっていたのです。
夏の太陽がギラギラ照りつける平成11年7月下旬・松江日赤を退院し、リハビリ専門病院へ再入院しました。
平成11年8月頃、やっと自分の力で念願だった「一歩」が踏み出せた時は、もう感謝・感謝で、涙一杯、お礼の言葉になりませんでした。
お世話になりました先生の目もメガネを通してですが涙で潤んでいたように思います。
この喜びを、いち早く部屋の人に話そうと、意気込んで帰るのですが、部屋の人はまだ歩けない状態・・苦しみ・辛さを知っているだけに、部屋の人に自分の喜びばかり話すことも出来ず、息を飲み込んでしまいました。

そんな時、男性三人の患者仲間が心底喜び、コーヒーだけの「おめでとう会」を開いてくれたのが、今でも懐かしく嬉しい思い出です。
突然のこの障害を、到底一人では克服することが出来なかったと思いますが、この三人の患者仲間があったからこそ頑張れたと、感謝で一杯です。
三人の患者仲間の中には言葉が話せない人もおられ、家との連絡・病院での生活状況等・家族へのお話を、みんなが自分に残された部分を活かしながら助け合いました。
患者仲間の家族から喜ばれたのは勿論ですが、ほかの入院患者の家族からも信頼され、色々と相談を受けるようになっていました。
私達四人の仲間は、繊細な宮本さん・体も豪傑だが笑いも豪快な鹿田さん・何でも出来る井田さん・マドンナの福間さん・いつもこの四人で励まし・慰め・笑い・楽しみ・褒めあい・車椅子を連ねて病棟を歩き回っていましたので、「四人組み」と呼ばれ有名になっていました。
また、病棟の誰々が退院される時、お見送りしたい人は全員がエレベーター前まで行き、万ざーい!・万ざーい!・おめでとう!元気でねぇー!と言い合いながら握手あり、抱き合いあり、自分の事のように退院を喜び、この喜びをみんなで分かち合いました。
みんなが同じ苦しみ・辛さを経験しているだけに目には光るものがあり、「次は誰だろうねー」が、お見送り後の会話でした。
病院に入院しながらこのようなことを、みなさんに呼びかける事が出来るほど元気になった私が嬉しく、看護婦さん・看護助士さんからは、今度は「誰々が退院されるよ」と言われるようになり、いつしか「頑張りやの福間さん」と呼ばれるようになっていました。
 3・フォークダンス
私は、元気な時から趣味としてフォークダンスを楽しんでいました。
突然脳内出血で倒れた時も、左半身全く動かなかったのですが、私自身は勿論・フォークダンスの仲間も後遺症としてダンスが踊れない状態になろうとは全く予期していませんでした。
私自身、フォークダンスの指導者資格を取り「地域の生涯学習」に、役立てようと意欲に燃えて練習をしていました。仲間が、松江での練習会の時はみんなが病院へ見舞に来てくれました。
ベッドを囲み仲間と一緒に、フォークダンスの話をしていると、自分の体が全く動かない事をすっかり忘れ、話に夢中になっているのです。
新曲を座っての身振り・手振りだけでは面白くないので、ロビーでみんなに踊ってもらう事になりました。
早速、ロビーで踊っていると車椅子の数がだんだん多くなり、いつしか一つの輪になっているのです。
「福間さん・かぁ〜・どげした仲間かねぇ〜〜」「えぇ〜の〜」「心が晴々晴れ・す〜がの〜」「おもっせの〜」車椅子のみんなの顔・顔は、爽やかな笑顔で一杯でした。
こんなに病棟のみんなに喜んでもらうとは思ってもいなかっただけに、ダンスの仲間も、私も嬉しく、驚くばかりでした。
私達のように突然、障害という重い荷物を背負わされ、明るい未来の約束もなく、いつも暗黒の世界をさ迷っていましたので、楽しく・笑顔一杯・軽やかなリズムに乗って踊るダンスは心のリフレッシュの為に「本当に・良かった」と自己満足をしました。
 4・夢にまで見た会社への復職
平成11年10月20日・退院の日が決定したのです。 普通なら諸手を上げて喜ぶべき事ですが、障害者となり障害を抱えての退院は不安満載で、「もっと主治医の先生に診てもらい・側にいたら安心」と、いう気持ちで一杯でした。
退院後、会社への復職日「平成12年1月11日」が直ぐ決まりましたので、運転免許の再講習・車の改造・改造車運転練習等・忙しい日々を送り当日を迎えたのです。
念願だった会社への復職は、嬉しさ・喜びよりも、心配・不安で一杯でした。
復職後の仕事につきましては、電話受け・パソコンでの伝票整理と聞いていましたので、少しは安心したのですが、それよりも、この体が勤務時間の8時間に耐えることが出来るだろうか心配でした。
また、元気な頃から電話受けは得意でしたが、麻痺の為上手く話すことが出来ず、お客様に間違って伝わるようになり、それからは、「どもる」ようになったのです。
復職したその年は例年になく寒く、朝は凍結している事が度々あり、そんな中で事故はおきたのです。
平成12年2月10日午前8時過ぎ・・会社の構内が一面凍結状態の所へタクシーで出勤しました。
左足は感覚がありませんので、凍結路面上で踏ん張って立つ事が出来ず、滑って転び「股関節骨折」となり、平田市立病院へ救急車で搬送されたのです。
やっとの想いで復職したのに、また入院生活の始まりです。
4月初旬には無事退院したのですが、会社からは突然「退職通知」を言い渡され障害を抱えての復職の難しさを痛感していましたので素直に受理する事にしました。
会社への復職ばかり考えてリハビリに専念していたのに、一体何だったのだろうと思うと、無性に残念であり心は案外冷静で、安堵と残念が入り乱れているようにさえ思えたのです。
会社復職を目標にしていましたので、突然退職を言い渡された後は、糸がプツンと切れたようになり、人間不信に陥り、アルコールに溺れ、お酒で気を紛らす私になっていたのです。
もう、誰を信用していいのか精神的にも異常をきたし、平田市立病院精神科にお世話にならないと、立ち直る事が出来ないほど、精神的痛手は大きかったのです。

ある日主人から「仕事は会社だけじゃない、家にも清子を必要としている仕事が一杯あるじゃないか、得意な美味しい料理を作ってくれよ〜!・笑ってごせや〜!・清子の笑顔で俺と親父が元気になるけん笑ってごせや〜」と言われた時、はじめて私を必要としている家族の有り難さを知りました。
家庭を顧みず、ずーと仕事人間で生きてきましたので「私を必要としている家族がある」と言う事が分からなかったのです。
 5・どのような考えを持ち、 どのように生きているのか
今私は、障害は残りましたが、生きていることがとても嬉しく感謝で一杯です。
助けて頂きましたこの命を大切に、残された機能を充分に活かしたいと思っています。元気な時に培った事をもとに、命を助けて頂いたことに有り難いと感謝し、障害者の私でも出来る事を、恩返しとして皆さんに喜んでもらう事を、やりたいと思いました。
私は元来、人に喜んでもらう事をするのが大好きであり、人の笑顔を見るのが大好きな人間です。
私ができるボランティアでみなさんに喜んでもらい、また私も、「生きていて良かったな〜」と感じられる事を、生きがいとしてやりたいと思いました。
現在実行しているボランティアです

@・知的障害の子を持つお母さんたちが立ち上げた「お弁当屋さん」の経理全般・税務申告まで
障害者となり「私・福間清子は全てを喪失した」と思っていたのですが、元気な時培ったパソコンが出来た時は、「もう、嬉しくて・嬉しくて」頑張ろうという気持ちが湧いてきました。
障害の場所は違えど「同じ障害者同士・お互い助け合わねば」と言う気持ちで参画させてもらっています。
私でもお役に立つ事が出来、また、知的障害者の就労の場所があるのが嬉しいです。

A・町内集会所の掃除
町内集会所を仲間4人で、毎月・1回「掃除ボランティアグループ」と称して掃除をしています。
「継続は力なり・生きている間に喜ばれる事をしよう」を合言葉に、楽しく磨いています。

B・灘分小学校での 本の読み聞かせ
全国的に「本の読み聞かせ」の機運が盛り上がっている時、 地区小学校でもはじめる事になり、講習会に参加、毎週一回・20分程の、本の読み聞かせをする事になりました。
子供達に本の絵を見せながら読むのが基本動作ですが、左手の動かない私は、基本動作が出来ませんので、体の不自由さを子供達に説明してお手伝いをしてもらうことになりました。
「お手伝いボランティア」と書いたペンダントを、首からぶら下げ待っていてくれる子供達は、目がきらきらといつも輝き将来が本当に楽しみです。
この子供達が2年生の時から始めたのですが、もう6年生・・・日本の将来を担って行く子供達と接する事が出来ましたのは、私の良き人生の思い出となるでしょう。

C・デーサービス施設での キーボード演奏
退院後歩くのがやっとの私に出来たのは、パソコンをいじりエレクトーンを弾くだけのことでした。
音楽が大好きな私にとりまして、エレクトーンの音色は暗黒の世界から脱皮させてくれたのです。 私の好きな音楽で「助けてもらった命を生かしたい」と考え、近くのデーサービス施設でのキーボード演奏を始めました。
キーボードを弾き学校唱歌・童謡を利用者の人と一緒に歌い、フォークダンスで培った経験を生かし、軽いストレッチ体操をします。 利用者の人と一緒に「ふるさと」「海」「むすんでひらいて」を歌っていますと、みなさんのこぼれんばかりの笑顔が何よりも嬉しく「生き返った命を、笑顔を見るために使おう」と、心を新たにする時でもあります。
利用者の方が、私の身体的状況を興味津々で聞かれますので「障害のこと・生き返った命の有難さ・笑顔を見る喜び・歌える嬉しさ」を話しています。
歌の好きな私は病院では、あまりにも辛く・淋しく・悲しかったので歌を歌おうと思ったのですが声が出なく歌えませんでした。
歌と言うものは、いつでも歌えると思っていたのですが「体が元気でないと歌えない」と言う事が始めて分かりました。
こうして、歌えることは「元気な証拠ですよ〜・有難い事です・どんどん歌いましょう〜!!」といつも話をしています。

D・視覚障害者へのデージー編集と交流会
私は右手しか使えませんので、 どうしても筋肉痛がおこり、近所の永瀬さん宅へマッサージに行きます。
元気だった頃から知っている永瀬さんは中途視覚障害者でもあり、辛い事など何でも気軽に話せるので安心し、障害の辛さを話した時「福間さんはえ〜わね〜、目が見えるし、運転がな〜だけんね〜、僕やちゃ〜見えんだけんね〜!!」と、言われた時「あっ、そうだ、私はまだ良いのだ」と、思いました。
同じ障害者同士みんな良いところが一杯残っているので、相互間で有効利用し、助け合う事は出来ないだろうかと思いました。
ある日、市の広報が視覚障害者へのボランティアを募集しているのが目についたのです。
私の出来る事で視覚障害者の人の役に立ちたい、喜んでもらいたい「助けてもらった命を生かしたい」一心で島根ライトハウスの簡単な面接試験を受け、松江での講習会を受講しました。
パソコンが出来れば簡単と考えていたデージー編集は案外難しく、今、落ちこぼれ生徒として特別講習を受けています。
せっかくここまで勉強させてもらいましたので、時間は掛かっても一人前のデージー編集が出来、多くの視覚障害者の人達に最近流行っている本を読んでもらいたいと思います。
同じ障害者同士助け合う事ができ、喜びを感じてもらえれば最高です。
また、島根ライトハウスを母体としたメールの会にも入会させて頂き、ここでもキーボード演奏し、懐かしい学校唱歌を歌い楽しいひと時を過ごしました。
今度は、フォークダンスという希望もありますので、フォークダンスで交流会を開き楽しみたいです。
 6・好奇心旺盛な私の挑戦
@・エレクトーン・マラソン・コンサート参加
退院した時、エレクトーンを弾き音符を読むことが出来た時は、嬉しく元気だった頃の知識が残っている事が分かり、頑張ろうという気持ちが湧いてきました。
音楽は心身ともに落ち込んでいる私を、いつも励まし勇気付け、エレクトーンを弾いている時は、自分に障害がある事をすっかり忘れているのです。
エレクトーンコンサート参加は「同じ障害を持った人の励みになれば」と言う思いと、「元気な時に培った事は身体が覚えているので、長くやり続ければ結果が出る」事を伝えて生きたいと思っています。

A・出雲市食育まちつくり懇話会委員の一人として
出雲市が「食育まちつくり条例」制定のための懇話会委員を週報で公募しており、意見・提言を800字程度にまとめ募集しており応募しました。
それが、何と公募者の中から選ばれたのです。
懇話会委員は総勢18名(各団体代表14名・公募選出4名)により、7月から毎月市役所会議室にて答申書作成が始まり、平成17年11月18日西尾理宏出雲市長に答申書提出と言う運びとなりましたが、これで終わりではなく、これから始まるのです。
懇話会委員として「食育まちつくり」に今後も携わる事が出来れば、生き返った命がより輝くのではないでしょうか。

B・ボランティアグループの事務局として
昨年から出雲市がサポーター養成講座を開いており、毎月「講義・体験等」の勉強会がやっと終了しました。
その受講者20名は、仮称「障害のある子どもと交流する会」として、ボランティアグループを立ち上げ、私は事務局として、書類作成・連絡係り等のお世話をさせて頂く事になりました。
今、概略的な予定では「夏の納涼会&七夕まつり・冬のクリスマス会」です。
これは、出雲市役所・障害児童通所施設等の応援もありますので、後は私達ボランティアの「やる気」に掛っていると思います。

C・おじいさんの介護
脳内出血で突然倒れた私が、介護でお世話になっても仕方なかったのかもしれないが、障害は残り片手・片足ですが頑張れば一通りの事が出来るようになりました。
「おじいさんを看てあげられる」のが嬉しいのです。
完璧100%とはいきませんがいつも私は「申し訳ない」気持ちです。
おじいさんも障害者の清子さんに「申し訳ない」気持ちなのです。
この「申し訳ない」気持ちがあるから一生懸命で看てあげることができるのではないでしょうか。
先日このような詠を私に下さいました。

「けなげにも 嫁は半身で
  茶飯事を 裁き居るなり
 無理なきを乞う」
御大切にして下さい
清子様へ

最近、主人が私に良く言います。
「清ちゃん、今頃生き生きしと〜ね・あのまま会社へ勤めとったらこぎゃんことならんのに、首になって良かったがね〜。会社を訴えてやると言って、がいに怒っとらいたに、ほんに首になって良かったね!!」本当にその通りです。
あんなに会社を恨み、訴えてやるとまで怒っていたのですが、年月を経て冷静に考えてみると、何も分からなかった私を大きく育ててくれたのは会社です。
会社で色々な事を教えてもらったからこそ、こうして出来ると感謝で一杯です。

障害者になった為に、失ったものも沢山あり、失ったものは大きく、もう取り戻すことは出来ません。
でも、お蔭様で右手・右足・おしゃべり・健全なる心・ものの分別できる能力は、元のままで残され現存しているのです。
この、残された部分を充分に生かし、失ったものを少しずつ取り戻し、家族に喜ばれ、ボランティアを生きがいとし、また、この障害に押しつぶされる事のないように光り輝いて生きて行きたいと思います。
こうして、私が、元気な頃から体験・経験してきました物・全てが、障害者となりました私にとりまして、生きがいとなり、生きて行く上での糧となり、無駄なものは一つもありませんでした。
これからも、私の出来る範囲内で、助けて頂いた命を大切にし、人に喜ばれる事を生きがいとして、生きて行きたいと思っています。
そして、最後に障害者になりましたことは、私にとりましては勿論のことですが、主人にとりましても、家族にとりましても非常に残念な事です。
今の私は、料理大好き、掃除大好き人間ですので、美味しい料理を沢山作り「お帰りなさい」と言って迎えてあげられる事に、幸せを感じる毎日です。
生き返った命が、みゃく・みゃくと生きずいており、仕事
一筋の私だったのですが、会社を辞めはじめて違う生き方・楽しみ方を知りました。
「生きているのが嬉しい〜〜!!」の境地であり、リハビリに頑張った者だけに、神様が「歩ける」事をご褒美として下さったものと感謝しています。
障害は残りましたが、小さな幸せに満足し、生きている事への喜びをかみしめている毎日です。

ポートレート

ポートレート

知的障害者施設「さざなみ学園」
フォークダンス・ボランティア
(黒い服が私です)

平成17年10月29日
全員で「ビリーブ」踊る
(黒い服が私です)

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設定期間:2001年3月15日〜2001年12月31日
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最終更新日: 2006/07/31