失語症記念館
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第7回うつと失語症

神戸大学医学部保健学科
 関 啓子

2005年5月:

 ゴールデンウィーク前後になると,多くの大学では授業をさぼる学生が目立ち始めます。勉強する気になれない,何となく気持ちが滅入る,あるいはイライラ感やゆううつな気持ちを抱くといった,いわゆる五月病が原因です。五月病は医学用語ではありませんので,特に決まった定義があるわけではありません。新入生や新社会人が学校や会社に慣れてきた五月頃にみられることが多いのでこう呼ばれるようです。無気力,不安感,焦りなどの精神的な症状の他,食欲がなくなったりお腹が痛くなったり,眠れなくなったり,あるいは頭痛やめまい,動悸などのような身体的な症状が出ることもあります。苦しい受験勉強を乗り越えてようやく入った大学は,高校とはずいぶん違う場所です。広いキャンパスには多くの建物が建ち並び,授業科目も自分で考えて選択することができます。また,実家から離れて一人暮らしを始める人も少なくないでしょう。4月中はこの一見魅力的な新しい環境の中で,新しい人間関係を作り,新しい生活に適応していくことに無我夢中で過ごすでしょう。しかし,生活が一段落した後には,これらがストレスという形をとって新入生を襲うのです。受験の緊張から解放されていざ自由の身になると,合格を目指してひたすら頑張ってきた自分は何をしたらよいのか,次の目標を見失って無気力になるのでしょう。あるいは,胸を膨らませて希望の大学に入学してはみたものの,授業は大クラスで一方的に進み,サークル活動にも馴染めず,気づいてみると自分はひとりぼっち。自分が期待していたような大学生活ではないことに気づいて,失望感でいっぱいになったりするのだと思います。大学にいる者として,このような授業ばかりではないことを強調したいとは思うのですが,新入生への配慮が少々不足していることは多くの大学の現状かもしれません。この五月病を乗り越えられる人も多いのですが,乗り越えられず本物のうつに移行する人もいるようです。

 私たちは日常的に「うつ」や「うつ状態」という用語を使いますが,ひとくちに「うつ」と言っても原因や症状は様々です。厳密にはアメリカ精神医学会や世界保健機構が作成した詳細な診断基準(ICD-10あるいはDSM-W)などを用いますが,それはともかく,私たちの周りにはうつ的な傾向を示す人が少なからずいます。私の周りでは学生だけでなく,同僚の先生や友人,その家族や知人など,たくさんのうつに悩む人がいます。それだけ世の中が複雑になったのかもしれません。
 健康な人であっても,人生のどこかの時期にうつ病になる割合は15%程度,女性の場合は25%にも達すると言われています。知人を4人思い浮かべればそのうちの1人はうつ状態になるわけですから,これはかなりの高率といえるでしょう。

 ところが,さらに驚くべき数字があります。脳卒中後にうつ状態を合併する割合は15〜79%というのです。対象の違いによって頻度に幅はあるものの,ほとんどの研究で健常者より高率にうつが出現することが報告されているのです。リハビリテーション病院に限っていえば,平均46%の入院患者さんがうつを示したそうです。つまり,患者さんの2人に1人という驚異的な数字です。
 ではなぜ,これほどまでに脳卒中後にうつが多いのでしょう。これについては長い間論争があったようですが,CTによって脳の様子を見ることができるようになって,その一つの理由は脳損傷に起因する脳の器質的変化のためであることがわかってきました。左半球損傷の患者さんでは病巣が前寄りであるほど,右半球損傷の患者さんでは病巣が後ろ寄りであるほど,うつを合併しやすいと言われています。さらに,左半球損傷の場合の方が右半球損傷の場合より,うつを示す患者さんが多いという結果も報告されています。このようなうつ症状は発症後3ヶ月頃ピークを示し,抗うつ薬を飲むことで1年後までに次第に回復することが多いそうです。高率にうつが合併するもう一つの理由は,患者さんご自身が自分の置かれた状況を客観的にみて落ち込んでしまうためと言われます。手足の麻痺のために自由に移動することができない自分,職場に復帰できない自分,家族や社会の中で役割を失った自分に対して絶望し,自信を失い,さらには自殺したいような気持ちになる,という,いわゆる反応性うつの状態です。このようなうつ状態は発症から比較的時間が経ってからみられ,心理的な支援によって軽快すると言われています。

 脳卒中患者のなかでも,失語症者はうつを示す可能性が高いことは容易に想像できます。なぜなら,失語症はうつを合併しやすい左半球の損傷によって引き起こされるものであるうえに,言語の障害は社会的孤立や人間関係の崩壊に直結するものだからです。ところが,これまでなされた研究では質問紙による評価が難しいという実際的な理由で,失語症者は対象から除外されることが少なくなかったようです。ですから,失語症者を含めた場合のうつ発現率は従来の報告よりさらに高率になるのではないかと思います。最近では失語症者用の質問紙 (Sutcliffe and Lincoln: The assessment of depression in aphasic stroke patients: the development of the Stroke Aphasic Depression Questionnaire. Clin Rehabil, 12:506-513, 1998) や VASスケールという視覚的に程度を表現する評価法を用いて脳卒中の患者さんの全体像を把握する試み (Turner-Stokes L: Poststroke depression: getting the full picture. The Lancet 361: 1757-1758, 2003) がなされています。

 私はこれまでの臨床の中で,うつ状態になった失語症の方の辛く悔しい胸のうちをいくらかでも共有してきたつもりです。「がんばれ!」と励ますのではなく,ご本人の気持ちを理解し,同じ地平線に立ちたいと願ってきました。どれだけのことができたかはわかりませんが,悲しげに肩を落としていた患者さんが笑顔を取り戻し再びリハビリテーションに取り組む姿に私の方が励まされたものです。
 ご本人も辛いのですが,ご家族,特に配偶者の辛さもまた深いと思います。最近の発症から長期間経過した脳卒中患者の配偶者に焦点をあてたドイツの研究は,それを如実に物語っていると思います。この研究では,発症後3年以上経った脳卒中患者の配偶者26人の心理的状態を面接によって明らかにしています。それによると,配偶者が脳卒中に見舞われたために,配偶者の日常生活が激変し,家族関係にも変化が生じたことは全員に共通していました。特筆すべきことは,患者のうつ状態が重いほど,その配偶者が健康問題を抱える率が高くなり,その生活の質(QOL)にも大きな影響を受けがちだったことです (Jungbauer, J et al.: Long-term life changes and stress sequelae for spouses of stroke patients. Nervenarzt 74: 1110-1117, 2003)。配偶者が長期間にわたって一人で患者を支えるには,脳卒中,中でも失語症はあまりにも重い重荷です。入院期間中だけでなく,退院後も,ご本人だけでなくご家族への継続的な支援が必要だと思います。

  

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最終更新日: 2005/05/30