2006年11月 |
「お父さん、お母さん・・・」
その言葉で始まった彼女の手には無謀にも便箋が3枚も・・・。
「お父さん、お母さん、長い間ありがとうございました。」
時々、彼女の挨拶がとちったり、間が空くたびに私の腰は浮き上がりそうになった。彼女の横に行って、次の言葉を促してあげたい、落ち着いて話せば大丈夫と言ってあげたい。目を閉じて聞いていた私が、顔を上げると、彼女の腰には、さっき、長い誓いのキスをした彼の手が力強く添えられていた。言葉につまった彼女の耳元に彼がささやいているのが見える。すぐさま、彼女の言葉がその口から紡がれ始めた。
私は再び目を閉じて彼女の声をたどっていく。私の仕事はこれで終わりだと静かに思う。嬉しいけれど、悲しくて、寂しくて、でもとっても嬉しい・・・でもでも寂しい・・・。たぶん顔をくしゃくしゃにして私の祝辞のあと挨拶に来られた彼女のお父さまと同じ気持ちだ。
10月の関東では珍しい嵐の翌日、彼女の結婚式が執り行われた。
彼女とは7年のつきあいになる。まだ大人になったばかりの彼女を襲った交通事故は、外傷だけにはとどまらず強く打った頸動脈の壁がはがれて飛んで、脳梗塞を起こしてしまった。
そこから、日常から引きはがされた家族と彼女の戦いが始まる。幸いにして、体の麻痺は残らずにすんだけれど、重い失語症というハンデを負ってしまった。
「私、結婚とかできないよね。」「言葉変だよね。」「彼にはドキドキしないの」「今、とっても楽しいの。」「結婚しようって・・・言われた・・・」「先生、スピーチしてね。」「ドレスこれにしようと思うんだ。変ですか。」
彼女が私の前で作り出した言葉の数々が走馬燈のようによみがえってくる。
会場に着いたら、彼女が可愛いドレスに身を包んで友達と写真を撮っていた。私はそそくさと別館へ足を向けた。冗談じゃない。涙出ちゃうじゃない。可愛いじゃない。輝いちゃって・・・。
キリスト教もどきの式は、彼の誓いのキスがやけに長くて、彼の彼女への気持ちが妙に伝わって、これまた妙にみんな感動しちゃった。
「結婚は無理だよね」という彼女に「日本人のいない外国に行けば、大丈夫。へんぴな外国の花嫁になれ。」と言ったことごめんね。あのとき「やだよ、先生、外人はやだもん。日本人が良いよ。」と言ったよね。こんな良い日本男子に恵まれるなんて、前に言ったことを反省してます。私の対象としている病気は、お金をかけるか家族や周囲の愛で支えなくては絶対よくならないのだ。だから彼女は愛情豊かな家族に包まれて育てられ、障害を持ってからも素直に育まれてきた素晴らしい女性なのだと言うような、臨床家としての一言を好き放題言わせてもらってスピーチにさせていただいた。
席に戻ると彼女の友達がみんな泣いていた。「こんな・・・前と変わらなくなって、あのころ毎日お見舞いに行ってたんです。信じられない。」隣の子がそう言って又涙をこぼした。
馬鹿にしちゃ、いけないよ。人間の脳は奇跡をたくさん起こすんです。あきらめたところがゴールになってしまうだけで、結構侮れないのです。
あきらめずに頑張ったのは、おばあちゃん、ご両親、兄弟と本人・・・そして私。あとから・・・新郎・・・と加えてやろうじゃないか。
嵐のあとは、青空が戻った。式に向かうために駅に行ったら常磐線が止まっていたので、自宅に戻り車で来たけれど、帰りには青空が広がっていた。人生、嵐が来たあとは、必ず天気がよくなるはずだ。
おかげでワインは飲めなかったけれど、アルコールで侵されていない脳みそに、彼女の美しい晴れ姿がしっかりと焼き付けられたのであった。
おめでとう。本当におめでとう。私の仕事の大きなご褒美となった日でもあった。
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