失語症記念館 失語症と風景
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失語症の風景:13

一粒種

言語聴覚士 吉田 真由美
水戸医療センター

2008年03月

 ちょっと遅い昼食の後、私たちは診療室に向かっていた。なんだかこの頃忙しくて、研修生たちとも昼食の時間にしかコミュニケーションが取れない。

 廊下の角を曲がると、正面のベンチの前に青いベビーカーが置かれていて、若いカップルが座っていた。当院も時代の流れで小児科医と産科医が現在不在。院内ではあまり赤ちゃんを見なくなった。

 この頃年のせいか、乱視が幾分進み細かいものが判別しにくくなってきた。カップルは、私の姿を見たとたんにベンチから立ち上がった。どうやら私の知り合いらしい。誰だろう。

「先生。」懐かしい声がした。
「おや、Sちゃん。そちらはT君かぁ。すると?」
「生まれたんです。8月11日に。」Sちゃんが、即座に答えた。
「ちょっと予定より早かったんですが、無事生まれました。」
「男の子ちゃん?女の子ちゃん?」
「男の子です。コウイチロウとつけました。僕の名前の一文字を入れたんです。」
彼が嬉しそうに目をしばしばさせながら説明を加えた。

 Sちゃんは、昨年10月台風一過の翌日に結婚式を挙げた私の大事な宝物だ。8年前に交通外傷後の頸動脈の解離による脳梗塞を起こして、私の患者さんとなった。昨年の今頃私はドキドキしながら、祝辞を述べていた。気がゆるむと嬉しくて嬉しくて涙が出そうになるから、淡々と原稿を読むことに専念した祝辞であった。
 早いもので涙のドキドキ祝辞から1年が経過し、今私の前に手足がついた、とびきり可愛い大福餅がででんと鎮座している。

「ほっぺたがプリプリしていて大福餅みたいだね。」
「そうなの、太っているの。」
「母乳パワーです。彼女、母乳で育ててくれてるんですよ。」
「おお、そうなんだ。母乳で育てると頭も良くなるらしいよ。でもおっぱいをちゃんとケアしてないと萎んで垂れるそうだぞ!」
「ええーっ?」みんなで大笑い。
 今日は、T君のお休みだそうで、コウイチロウ君が生まれて2ヶ月たったのでもう連れて歩いてもいいだろうと、私に彼を見せにやってきたという。
 前に比べて、だいぶスムーズになった彼女の言葉は、今の幸せをそのまま反映しているかのようだ。
 コウイチロウ君が、にこりと笑った。社会的微笑だ。
 にこにこにこにこ・・・院内の廊下に幸せな空気が満ちあふれた。

 いつも若い患者さんを前にしたとき、どうやって後遺症と闘いそして共存していけるような力を持ってもらえるかと考える。コンプレックスは必ずついてくるし消えない。消す必要もないと思っている。そのコンプレックスに打ち勝てる何らかの自信を持てるものを見いだすのが重要だと思っている。言葉に少し問題があっても中身は変わらないんだよ。
きれいな心も熱い気持ちも元のままだよ。これだけは人に負けないってやつを見つけて伸ばしていこうよ。だから頑張ろうよってね。

「○○さん、お連れしました。」
午後の病棟の患者さんが、やってきた。
「あ、先生仕事だね。」
「うん、また来てね。でもこれからはインフルエンザなんかが病院ははやるから、温かくなったら、また見せてね。」
2人はぴょこんと頭を下げると大事そうにベビーカーを押して帰って行った。

 なんだか疲れが吹っ飛んじゃったなぁ。孫ができた気分になっちゃったよ。まずいなぁ、年とっちゃうじゃないかぁ。ここのところ疲弊気味だったけれど、急に元気が出てきた気がする。さぁ、また頑張るかぁ!
さあ、仕事だ、仕事!
「○○さん、お待たせ。こんにちはぁ!いつ見てもいい男だわぁ!」
「ありゃりゃ、○○さん、笑ってる。あたしが話しかけてもぶすっとしているのに!」
助手さんが大きな声で言った。
「○○さんね、この頃たまに笑うし、話すのよ。色っぽく話しかけてね。」
と言った私に
「あたしにゃ、無理だよぅ!はっはっはーっ。ねぇ、○○さん!」
また助手さんの楽しげな明るい大きな声が午後の廊下に響いた。


失語症と風景
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最終更新日: 2008/03/31