2002年08月 |
「名古屋のUさんという男の方ですよ。」
義母から取り次がれた電話であった。
結婚したばかりの私はまだ料理の手際も悪く、仕事に疲れた体はよけい台所での足を重くしていた。名古屋?Uさん?・・・ぴんとくるものは何もない。
受話器を取ると
「先生、名古屋のUです。」と聞き覚えの全くない声である。
「失礼ですが、どちらにおかけでしょうか?何かのお間違いでは?」
電話の彼は私の旧姓を告げた。
はて?私の旧姓を知っていると言うことはやはりどこかであったことがあるのだろうか?まして、自宅の電話番号まで知っている。沈黙の時間が少しあった。
「先生、・・・僕しゃべれるようになったでしょう?」
その一言で一瞬のうちに彼の顔がよみがえってきた。
「あっ!・・・もしかして・・・Uさんなの?」
「はい、Uです。」受話器の向こうで含み笑いが聞こえてきた。
8年前、私は静岡県の伊豆半島にある温泉病院で1年間言語聴覚の研修生として過ごしていた。Uさんは私が水戸へ戻る3ヶ月前に転院されてきて、その3ヶ月間を私が主担当させていただいた方である。手足の麻痺はなかったが重度の運動性失語で担当している間一言も彼の声を聞いた記憶がない。温厚そうな中年の技術者であった。こちらへ戻ってきてからも年賀状のやりとりが続いていた。
結婚が決まったことを、年賀状に書くと、彼から結婚祝いのプレゼントが届いた。箱から出てきたのは、瀟洒なワイングラスであった。まだ若かった私は、お返しに何を送って良いのか分からず、茨城特産のローズポークのハムのセットを選んだ。今考えると少しダサイ。・・・と言うわけでハムのお礼の電話だったのだ。
「Uさんなんですね?」
「先生、僕の声初めて聞くでしょう?」
「うんうん、初めて・・・だって全然言葉でなかったし、・・・」言葉が詰まる。あっという間に涙がこぼれる私であった。あのUさんがしゃべっている。しかも電話で・・・わざわざ茨城までかけてくれたのだ。
少したどたどしさが残ってはいたが、言葉を吟味しながらゆっくりと話すUさんの話にしばし耳を傾けた。
Uさんは私がいなくなった後も1年6ヶ月ほど伊豆の病院で言語治療を続けられ、自宅に戻り、どうにか職場復帰を果たしたという。言葉の方は5年過ぎたあたりから少しずつ戻ってきたという。大変なこともあるが、頑張っているよと笑った。
「本当に良くなられましたね。びっくり仰天。」
「先生、ハムごちそうさま。お幸せにね。」
「Uさんもお元気で」
急に疲れが吹っ飛んで高揚感のまっただ中に体が浮いている感じがした。嬉しくて嬉しくて、ああ、これを誰かに伝えたい。その日の夕食の話題はもちろんのこと、この話は私のところへ通ってくる重度の失語を抱える本人のみならず家族にも大きなエネルギーを与えてくださった。
その頃はまだ失語症者の長期の経過報告が国内ではほとんど見られなかったので、時間経過に焦りを感じずにはいられない私達にも大きな勇気を与えてくれた。
8年。長いか短いか・・・それは人それぞれだ。彼が話せるようになったという現状は私に大きな感動を与えた。しかし彼の8年はとてつもなく波乱にみち苦難に何度も襲われたことだろう。たった3ヶ月しか接点を持たない私には計り知れない。
私達にできること・・・それを模索するのも私達の仕事であると思う。
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