失語症記念館
友からの便り2005年9月臨時増刊

あいさつ皆さんからのお便りをご紹介します。あいさつ

誕生日としあわせに一言

9月9日:森川さんから便り
 千葉市 森川です。
今日は、私の誕生日。7才になったのです。
喜んで良いのか?
1998年(平成10年)9月9日。もの凄く暑い日でした。
丁度、今ぐらいの時間(午後12時半)ですね。右半身がもつれ歩けなくなりました。
笑って下さい。ゴルフ前半の最終ホールでした。
クラブハウスまで、同伴競技者の肩をかりて歩き、片手で洋服を着替えたところで、どうしようも無くなり救急車を呼んで貰いました。
救急車の中で気を失い、目が覚めたら、右半身が動かない、言葉は全く出ない。
目が覚めない方が楽だったのかなあ...。
特に女房には....。
でも、2度目の違った人生も良いかな?
それでは又。
9月9日:福間さんから便り
 出雲の福間です。
森川様も私と同じ頃ですね。
私は、平成10年9月13日(日)でしたよ〜。蒸し暑い日だったのを鮮明に覚えています。
あの時点から、こうして「障害者として生きていくことを」余儀なくされたんですよねぇ〜〜
でも、お互い元気で、自分が持っている知識を充分に発揮して生きているなんて最高〜で〜す!
会社へ勤めていたらこんな自由時間なんて無いですよ!
「ストレスのだんご」状態です〜・自由な時にメール&ドライブも出来るし・最高!!嬉しい!!です。
私は、年齢は3歳な〜〜んて・しとこうかな?
同じ世代って、話が合います。
「ぼろ」が出ないうちに失礼します! 明日は、町内有志で立ち上げた、80歳以上を対象にした「茶のんばなし会」があります。
上手くいくといいのですが! まぁ〜〜楽しくて・笑顔があれば「よし!!」です。
こんな事が出来るなんて「夢のまた夢」です。
9月9日:松岡さんから便り
 熊本県の松岡です。
私の誕生日は9月7日でした。
平成9年9月6日(土) 、職場懇親会で福岡ドーム・野球を観戦(リックスと福岡ダイエー)夕食のホテルでも懇親会は盛会。7日(日)の朝はJRで帰りますので、ビールをのみ、8時にはJRで帰りました。昼前には家に帰り、NHK・大河ドラマ「毛利元就」を見るが言葉がおかしくなる。(今考えれば、これが、言語障害=失語症でした。)
午後五時頃、国立療養所熊本南病院を受診したが、本人は 「病気ではない」ということで家に帰るが、家族に説得されて再度受診(午後九時頃)、そのまま入院。(血圧・208 /114oHg)(家族の話…五日間位は、 時々目を開ける程度。)」
意識は戻ったのですが、完全に「失語症」になり、9年目に入ったところです。
当時は、死んだ方が良かったと、何回も考えました。しかし努力のおかげでどうにか言葉は出来るようになりました。
今は、何でもやろうと、いろんなことに挑戦しているところです。
9月9日:福間さんから便り
 出雲の福間です。皆さん、辛くて苦しい当時の事を話して下さって本当に有難うございます。
当時の、苦しく辛い事を話すということはなかなか大変だと思いますが、たんたんと話が出来る人・話したいけど涙が出てどうしても話すことが出来ない人、思い出すだけでもいやな人、色々あると思いますが、私は7年経った今、やっと、たんたんと話すことが出来るようになりました。
その中で、森川様・松岡様・当時の事をお話して下さいまして有難うございます。ただ、メールの会「失語症」は・・・のような人が会員とお聞きしておりますが、当時の現状を話してくださいますと「そうだったのか?」自分と同じでより親近感が湧いてきます。
また、そのような人がこうして頻繁にメールで元気を下さいますので、「こんなに頑張っておられるのに私も・・・」と改めて元気を頂いております。皆さん本当に有難うございます。
ここまで元気になったのですから「生き返った命」が喜ぶ事をしましょ!
笑顔を見るために!!あなたの・あなたの・その笑顔が素敵です!
9月10日:福間さんから便り
 出雲の福間です。
私は、突然倒れ障害者として生きていくことを余儀なくされた記念すべき9月13日に乾杯です!
この日を境に、今思うと人生観がすっかり変わりました。
元気であのまま会社勤めをしていたら人生の内で到底「会うことも、お話しすることも」出来ない多くの友達に出会い本当に幸せ!です。
そして、今日立ち上げました町内80歳以上を対象とした「茶のんばなし会」の立ち上げです。
参加して下さいました皆さんの「楽しい!・笑顔!」が分かりましたのでもっと「喜んでもらいたい」と、私の夢創りは限界を知りません。
生き返った命をこんなに皆さんに喜んでもらう事に使えるなんて、もう最高!で〜す。
80歳以上でも夢を持ってもらいたい!生き返ったこの命を夢創りに捧げたい!・協力したい!
そうすると、この命がより輝きをますように思われるのです。
障害は残りましたが、年老いたみんなの顔が輝いているのが嬉しいィ〜!ありがとう・ありがとう!
私の生き返った命が叫んでいます!!
「生き返って嬉しい〜・こんなに喜んでもらえるなんて!ありがとう・夢創りに捧げたい!」
今日は、本当に喜びを感じた一日でした。
9月10日:福間さんから便り
 私は、いつも○○様のお話を読ませて頂いておりました。こうして、○○様からメールを頂くなんて嬉しいです。
>
そう!・この日に倒れ障害者となってしまいました。9月13日の午前中は、コンバインを使い稲刈りをしていたんですよ!主人がコンバインを操作し、私は40〜50キロ位ある籾取りをしていました。ちょうど、お昼ご飯を食べている時、体の左全体に「アキレス腱」がきれたような激痛が走りそれからもう全くダメでしたねぇ〜。
>
この9月が、人生観が変わったと言う人が多いですね! どの様に体をいたわったらいいのか分からないのですがまぁ〜〜大事にしなさい!と言う事でしょうか?
>
そうね!突然にこの「障害」という重い荷物を背負わされ身体的には勿論ですが、精神的にも病んでいますのでこの中から脱皮するには家族の暖かい「家族愛」しかないですよ〜。お互い、家族には感謝ですね!
到底一人では乗り越えていくことの出来ない身体的・精神的状況家族あってのものですよね〜。
>
そう!適当がいいですよ〜!私は、今でも身体的状況の再発見で・わく・わく・です。
赤ちゃんが大きくなっていくのと同じで感動です。
9月11日:新山さんから便り
 おはようございます。ご機嫌いかがですか!
私が色々とPCにこだわっているのは、私の通ったパソコン教室に有ります。代表者がアメリカ人で、サンドバーグ・カールさんと言います。同氏の理念に賛同した有志による民間のボランティア組織です。
教えるスタッフも、大学教授、高校生、主婦、開業医、いろんな職種の方がおられます。先生がボランティアなら生徒も無料で教わります。よって近隣からも多くの方が来ています。IT技術の向上を図りそれにより次世代人材の育成を目標にしています。
ここでは知っている人が分からない人に教えます、生徒から先生になる人もいます。ITの技術水準の向上を図り、健全な町づくりをしているパソコン教室なんです。だから私は、知らない人に知ってもらいたくて日常点検を公開しました。
パソコンをばらして組み立て正常に動作するまでやります。最後にパソコンの必要な人は自分のオリジナルのパソコンを製作して6ヶ月の教室を終わります。その間バーベキューをやったりハイキングをしたり、また作業奉仕があったりします。
障害者に辛い時もありましたが、終ってみて休みもしないで良く通ったものだと関心しています。
それが今の私を支えてくれています。感謝感謝です。
9月11日:松岡さんから便り
 9月人は4人もいられるとは知りませんでした。
他にも9月の人がおられるだと思います。何故、9月が多いかを考えてることも良い肝しれません。
今日は、選挙に行き、妻の実家の両親に会いにいきました。二人とも元気で安心しているところです。
私の母は、2年前に脳梗塞になり、失語症になってしまいました。話すことも聞くこともできない状況です。毎日病院に行き、散歩したりしております。
森川さん、福間さん、小野さん、私も、失語症であっても話すこともできますし、書くこともできますし、幸せだと思います。
幸せについてのことについてメールしませんか。
私は、言葉は完璧ではありますが、話すこともできますし、聞くこともできます。趣味もできますし、幸せだと思っております。
私の母も、毎日会えることも幸せだと思います。
9月11日:井上さんから便り
 こんにちは。
私は、9月ではなく11月が誕生日と言うことになります。
私は、そう言えば「私は不孝だ。」と出来るだけ言わないまでも、「幸せ」については考えてみませんでした。
今年50歳に私はなりました。先月生れて初めて両親に聞きました。それは両親の若い頃の話です。父は18歳の時広島駅の近くで原爆を受けました。母は広島の郊外で原爆を体験しました。従来我が家では、あまり原爆の件は話しません。ですが今年は、テレビを見たからなのか、両親が話しましたので、聞きました。その中で「生きていることは運がいい、また生きていることは幸せだ。」と両親言ったことを想います。
また母親は、私が病気になった時、広島から大阪に飛んで来て、生きている私を見て「良かった」と言ったそうです。物事が少しわかるようになった頃「生きているそれだけで十分、世の中悪い事ばかりではない。」と言ったことを覚えています。また「生きているのは、それだけで幸せよ」と母は言いました。
そうように「幸せ」と言うことを、私自身ここしばらく自分で考えてみませんでした。私は、母の口癖のように聞きながし、考えてみませんでした。少し考えて見ます。
9月11日:松岡さんから便り
 早速、メールいただいて嬉しく思います。確かに、当時は、死んだ方がよいと、何回も考えました。しかし、生きたらこそ、喜びもあるのではないでしょうか。
私の妻の「手記」の一部です。
【今思うと、発病して間もない頃は、主人も私も大変混乱しておりました。しかし、主人の兄弟や子供、そして孫たち、主人の同僚の方、友達、病院の先生、言語療法士の先生に恵まれ、ここまでこれたと思います。そして、パソコン、ゴルフ、写真、音楽等の趣味を持っていたことが、主人にとって何よりも宝物だったと思います。 「脳梗塞」に出会ってから、これまでを振り返ると、たくさん後悔もしましたし、失望もしました。周りの人が幸せそうに見えたこともあります。しかし、そうしながらも「脳梗塞」という病気を理解しようとし、そして主人と二人で絶対負けないぞと、頑張ってきました。医師から“一度死んだ脳は、元に戻らない”と言われ、周りからも“完全に治ることはない”と言われますが、私は“主人は、絶対治る”と思っています。 こんなことを言うと、まだ「脳梗塞」のことが分かっていないと言われそうですが、私にとって、そう信じていることが、「脳梗塞」「言語障害」と向かい合い、付き合っていくうえで、一番大切なことだと思っています。】
今は、喧嘩もしながら、元気に過ごしております。趣味も妻との喧嘩も、生きてるからこそだと思います。良い写真が撮れて嬉しく思い、今は幸せだとつくづく思いますし、孫と電話することて、嬉しく思いますし、今が幸せだと思います。
9月11日:森川さんから便り
 井上様、不覚にも涙が止まりません。
この投稿は、多分、失語症記念館に転載されるでしょう。63才で発症、以来の7年間。
今までの63年間は何だったのだろう?仕事、仕事に追われ、自分を振り返る余裕もなく、ただ毎日が過ぎて行く。現在の毎日は?と問われれば、『メチャ忙しい』。体も言葉も不自由なので疲れます。 でも毎日に目標があります。
朝ベットの上で、ストレッチをしながら、一日のスケジュールを考える。
大変だ!  でも楽しい!その私につき合う女房は、もっと大変ですがね。
入院中、何の目標も無しに、富士山の向こうに沈む夕日を眺め、泣いていた自分。
そんな時、女房が言った言葉。『貰った命。これからは弱い人の為に生きよう』。
そしてSTとの出会い。手抜きが出来ない性分。当分抜け出せないでしょうね。
これも、幸せかな? 
9月12日:和田(博)さんから便り
 9月に倒れた皆さん、私は9月に生まれました。
もう一つの誕生日は昭和57年12月17日です。(六ヶ月入院)で…、平成5年10月1日に二回目の病気になり2ヶ月入院しました。
その時はまだ一本杖で歩けましたが、色々ありまして(転倒等)車椅子で出かける事が多くなりました。今現在は妻と出かける時は車椅子で、デイに行く時は電動車椅子です。
私も運転は好きでした。最初の病気の時は運転をやっていました。家のお婆ちゃんが妻の運転の車に乗っていた時、出会い頭に大型と相撲して負けました。その時、お婆ちゃんが私と同じ病気になり、寝たきり(9年)になって今から4〜5年前に他界しました。
9月12日:松岡さんから便り
 「しあわせ」については、失語症になってしまったのに、「しあわせ」なんてあるものか、といわれる人も多いと思います。たしかに、失語症になってしまって「しあわせ」はないかもしれません。ただ、病気(失語症}になる以前のことを考えてみてもどうにもなりません。
であれば、失語症になったとしても、新聞は読めますし、本を読めますし、話しも出来るし、趣味もできるし、パソコンもでき、メールもできることを「しあわせ」だと思っております。
不知火は、旧暦の8月1日(八朔)の未明、0時過ぎから3時頃にかけての干潮時、八代海北部海域一帯に現れることで有名ですが、その日が3日(土)でした。その「まつり」と「花火」を撮りに行きました。 その花火です。
9月12日:井上さんから便り
 こんにちは。
素直に「しあわせ」ついて考えました。私は、前向きに物事を考え、また「ねあかな人間」と思っていました。その私が、「幸せ」と言う言葉に強いショックを受けました。
そう私は、人前では明るい人間を強調していたのかの知れません。私は「不孝」ではないと言っていますが、私は「幸せ」だと言ってないように思います。 熊本の松岡さんの書かれた「幸せ」ですが、新鮮にまた心残る言葉で、 考えさせられるものでした。
私は、感がえる事のきっかけとして、有り難く思います。私はいつもメールを拝見しているばかりですが、皆様のメールを観るのを楽しみにしている一人です。では、これからも宜しくお願いします。
9月12日:福間さんから便り
 私が、日々思っていることが皆様と同じで意気投合したのが嬉しいです。
泣いたとか・苦しかったと言う言葉を見つけたとき、心が「ほっ!!」とし、みんな一緒だったのだと思ったら、急に何十年来の友のように思われました。
私が日々思っている考えが、何かのお役に立つならば「生き返った命が、笑顔一杯で喜んで」くれると思います。
9月14日:山本さんから便り
 こんばんわ。山本です。
先日来、皆さんの発病からのお話を拝見しています。お一人お一人、物語がありますね。
私の勤める病院は急性期ですから、脳卒中を起こしてすぐ救急車で運ばれる方々が多く、私がお会いするのも病気になったその日か、翌日です。
言語障害のある方は、大抵、ご本人もご家族もとても困惑しておられます。数日たつと、(ある程度話せる方は)「何で・・・(こんなことになったか)!?」言語障害が重い方はただただ首を横に振っていらっしゃいます。病気になって一番辛いのは、自分に何が起きて、これからどうなるのか、ということを正確に知らされないことではないでしょうか?言語障害のご本人にちゃんと説明をしてくれるお医者さんは少ないですね。
私はこの様な患者さんたちの手を握ります。そして、「大丈夫ですよ。」と言います。
皆さんが、きっと良い生活に戻られることを確信しているからです。それは、このメール会の皆さんのお話のおかげです。人間は、どんな理不尽な運命にあっても、くじけず、立ち向かえますね。そして困難を乗り越えられればそれ以前より更にすばらしい人生が始まるんですね。
森川さんの奥様の言葉は素晴らしかったですね。ジーーんとしました。
「元の様に戻れるんでしょうか?」と聞く患者さんには、
「いえ、違うスタイルのコミュニケーションでいくんです。」とお話します。
「言葉がたどたどしくて、外人みたいと家族に言われるんです。」と言う患者さんには
「外人みたいな話し方、格好良いです。」とお話します。
「思うようにすらすら話せないんです。」という方には
「言葉は多さでは無いですよ。」と言います。
昨今の医療保険制度の流れを受けて、私の病院でも発病から長い外来患者さんが切られています。この方たちに病院ボランティアになっていただいて、発病後すぐの患者さんたちのお話し相手になっていただくようにしました。 私がどんな言葉を尽くすより、皆さんが側にいてくださるほうが、ずっと力強いです。
皆さん、これからも新人さん?の為にお力とお知恵を貸してくださいね。
では。
9月16日:谷川さんから便り
 ふっと目覚めたら、口も喋りがままならない、脳梗塞で片麻痺の障害者であった。左手で書く私の字も、あやふやで、さっぱり分からなかった。私はデパートから買った品物の代金を支払ってくれと、言うのだが、それが分からないのだ。私はまだ帯広にいるつもりでいたのだ。その当時、帯広には物療をやっても、言語療法をやってくれる人は居なかった。
 私はやがて、札幌の病院へと転院した。そこは当社の病院担当者が良いと言う病院であった。良いはずであった。その病院の主任者と副担当者に「金」を掴ませているのだから。
 それはどうでも良かった。早く治りたいと言うことだけだった。そして、一日も早く職場に復帰をしなければ、いけないと言うことだった。お得意先のAさんは、今週イベントをする予定だった。Bさんは、今やっているエンドセール(スーパーの棚が並んでいる片面)の取り替えをしなければいけない。仕事のことで頭の中は、グルグルと回っていた。
 そんなことは関係なく、今日も検査、明日も検査の連続であった。その内に、脳梗塞は一生治らないと言う声が、何処からともなく聞こえて来た。そんな馬鹿な・・と思ったが、ここの病院は脳血管病の患者が多くいるので、あながち嘘ではないらしい。本当に一生治らないのか、医師に聞いてくれと私は言うのだが、妻には私が何を言っているのか、全然分からなかった。
 私は呂律が廻らないのに、こんな簡単なことが、何故分からないのだ!とベッドを叩いて怒鳴り散らした。怒鳴ったと言っても、本人は理性的に怒鳴っていて、病院の中だと言う場所も弁えていた。それだけに妻は手の施しようが無かった。
 当時は、身内の人はベッドの下に布団を引いて、妻は寝ていた。付き添いの人が活用されるのは、地方から来ている人だとか、家族の中で、付き添いをしてくれそうも無い人だけだった。それ以外は家族の者が付き添っていた。
 退院して、家から通っても良いとの許可がでた。会社に復帰はどうなっているのか、私には疑問が残ったが、取り敢えず家から通うことにした。私は一生懸命に努力したけれど、会社の産業医はペケだと言うのだ。それはそうでしょう、私が会社側だとしたら、矢張り「だれそれの就業」書類に、許可の印は押さないと思う。それで決心が付きました。この病気で会社を辞めたのなら、私はまだ若いのだ、「友の会」があるさと思いました。当時、「失語症者の集まり」があって、全道から140名ほどの患者さんと、言語療法士が20名ほどが集まりました。それが失語症友の会を作ろうと言うことになった。

 名前も札幌にしたら、いや北海道にしたら良いとか、北海道を4つに分けて、道央、道南、道東、道北にしたら良いとか、いろいろと案がでましたが、結局、北海道にすることに決まりました。北海道失語症友の会「北の会」と正式な名称に決定しました。
 会長以下役員も出そろった。昭和62年6月、「北の会」の始まりであった。
 言語療法士は、会計と役員の一部だけで、他の役員は患者だけで補った。それから今日まで、紆余曲折はありましたが、曲がりなりにも、続いていることは、皆さんの努力と、役員の皆さんのお互いに思いやりと、辛抱強さの結果だと思います。私が札幌市身体障害者福祉協会に、何も分からずにメンバーの一員しなり、理事をやらせて頂いているのも、また4つの委員会の一つの委員になっているのも、皆、会員の皆さんのお陰だと思います。「北の会」の例会に「要約筆記者サークル」の人がたに、スクリーンに「話し言葉」を「要約筆記」してくれるのです。これには、聞こえが悪い人でも良い人でも、好評を拍した。次に喜ばれたのは、聴能言語訓練施設の活用である。本来、失語症者は月一回の「言葉の教室」だけでうったが、「聴能言語訓練」を失語症者でやることになったのである。これは週1回の言語訓練なのだ。

 当の聴力障害者協会の幹部は、指導員の先生は、あくまでも「聴能言語訓練」の指導員だとそのことをだけ取り上げて、失語症者は「目の上のたんこぶ」でした。役所の人がたは、失語症者には言語訓練が必要だと思っているが、前例が無いとのことで「ほっとおかれて」いるのだ。それで行政側は、訓練する人の名簿が必要だとか、なんだかんだと言って、ずるずると引き延ばしにしているとしか考えられない。財政難であることは確かに認めるが、無駄使いをしているのでは無いか?
 機関誌は今のままで良いと言う声が圧倒的に多いが、少数意見もある。声なき声を取り上げて行こうと思っている。それが会報の、「本音のトーク」であり「電話・FAX・メール」「木陰のベンチ」なのである。北海道の失語症者の皆さん!日本中の失語症者の皆さん!元気で毎日を頑張りましょう!
 私の第2の誕生日は、昭和60年6月なのです。
9月16日:後藤から便り
 こんにちは。後藤です。
早いもので、もう今年の11月が来ると満22歳になります。
約10歳までは社会復帰・パソコンと友の会活動に打ち込んできましたが、11歳から現在までは、ソフトの勉強を経て、ソフト制作の仕事を行っています。
悩むことはいろいろありましたが、次の事、次の目標をやらねばということに打ち込んだせいか深刻に落ち込むことはありませんでした。奥さんのささえがあったものと思います。
ノーテンキ(天気?転機?・・・)で過ごしてきましたが、発症以後の失語症に関する社会のメンテナンス面が充分になされてないようなので、自分が出来るものを行うことが必要と思い 訓練ソフト制作を行うことにしました。
去年から今年にかけて、ある協会の助成金を受け、共同開発の一員として動画を使用した動詞の訓練ソフトを完成し発売して、病院などで活用していただいています。
また 新しいソフトをSTの方々や電子メールの会の方の力をお借りして開発中です。
これからも微力ながら、会員の方々の力をお借りして皆さんの役に立って行きたいと思います。

設営者:後藤卓也
設定期間:2001年3月15日〜2001年12月31日
管理:有限会社ベイゲット
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最終更新日: 2009/12/05