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昭和62年はいろいろなことがあった年でした。
新しい人生をどう生き抜くのか?
「独立して大丈夫なのか?」と悩みながら、「第5回全国失語症患者のつどい
東京大会」の準備を行っていました。
この「東京大会」は、前4回までの大会と違った画期的なことがありました。それは、失語症者が主体になって準備をし、開催したことです。
この文は、その大会の予稿集(62年5月発行)に掲載されたもので、私は、このとき総合司会を行いました。
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昭和62年3月 |
総合司会 後藤卓也(49才、すずめの会々長)
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昭和58年11月25日午後五時過ぎ横浜高島屋の階段で倒れました。
外出先から会社へ「今日は戻らないから」と電話をかけた直後でした。
横浜脳神経外科病院に救急車で運ばれ手術し、ここで二ケ月、七沢障害交通リハビリテーション病院で六ケ月の入院生活をしました。
その後の言語訓練としては、関東逓信病院から東京警察病院に替わって現在に至る。
言語のリハビリには、仕事と同じように「やる気」(モチベーション)が必要であると思っています。
現在、趣味から仕事になったパソコンも退院した当座は、何から何まで分からなくなって困ったものです。
「こけの一心」−「やる気でやれば」と思っています。
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掲載した文は、原文のままで載せました。
大会は9月に行われたのですが、今思い出してみると、こんな話がありました。
約12年も前なのでうろ覚えな部分もありますが・・・。
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平成11年5月 |
司会を行っている際、こんな話がありました。 |
午後の部でお医者さんに落語を演じて戴くことになっていましたが、本部から「昨日、先生のお父さんが亡くなられたので、その旨会場に発表して」と落語の紹介の直前に連絡が入りました。
お手伝いの若いSTは、それではすぐに落語が始まる前に発表しようと言うのですが、「いや、いや」と私は止めました。
落語が終わり、お医者さんが立ち上がった時、私はマイクを持ち話を始めました。
演台の先生に
「先生ありがとうございました。」
そして会場の人々に向かって
「実は、先生のお父さんが昨日お亡くなりになられましたが、この大会の為に今日ご出場して下さいました。感謝を込めてもう一度拍手をしたいと思います。」
先生へ
「先生、ありがとうございます。」
帰りかけた先生は心からの盛大な拍手を受けてから退場されました。
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それだけの話ですが、私には大満足でした。
聴衆は、落語を聞く前に「先生に不幸があった」と聞かされるより、演じた後「不幸があったのだが、この大会の為無理を重ねて出場してくださった」と聞かされた方が、安心して聞けると判断したのでした。
失語症になっても、咄嗟の判断が出来たじゃない!?
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