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休職期間が残1年半。会社から、「会社は、まだいいヨ。ゆっくり休みなさいヨ。」と云われて、私は途方にくれました。
リハビリに明け暮れていたのでは、1年半の命。「孟母三遷」を実行することにしまた。
障害者として生き延びていく為には、「自分の予感を信じて実行するしか道がない」と考え、パソコンを更新することにしました。
買ったパソコンは、NECのPC-9801VM2で16ビット機でした。今思えば、これはパソコンの中の名器だったと思っています。
会社からは、売るものがあるのにと文句をいわれたのですが、ソフトの量と講習のチャンスと場所から、これを購入したのです。
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13年ほど前のパソコン、プリンタとソフトなどの価格は、最近のパソコンを5台以上も買えるものでした。
MS−DOS、CP/M、アセンブラやBASICなど、いろいろなものの講習を受けてみました。
木場から秋葉原まで、地下鉄の東西線と日比谷線を乗り換えて行くのですが、女房に付き添いしてもらいました。免状はもらったものの、なかなか理解出来そうにありませんでした。
アセンブラより、CP/Mの方が理解出来そうな気がしていたのですが、CP/Mは中止すると言われ、人間の使っている日本語は日本人が続く限り続いていますが、機械の言語は人の意志で中止されるものなのだと思いました。
しかし、病気の前、一度だけですがBASICの講習を受けたせいなのでしょうか、頭の中に入って来たのは、BASICでした。
本も出版され出して、ナツメ社の「PC−9801U2/VF/VM
ビジネス・プログラミング」やアスキー出版局の「入門・実用MS−DOS」などを参考にして、ソフト作りの実習を何度か行ないました。
何かわからないと、日本橋の丸善に連れて行ってもらい、関係がありそうな本を買っては参考にしました。
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いろいろ考え、休職期間中でしたが、会社に出社することにしました。会社は迷惑だったと思いますが。
その頃の殆どの会社では、ソフトを買うという気がなかったし、機械さえ買えば仕事をすると思っていたようです。
そこに、喋れなくとも、仕事を出してもらえたら、お役に立つ自信があったのです。
昭和61年4月から、週に2日、曜日を決めて肩にかけるバックに弁当を入れて歩いて通いました。
門前仲町には、相撲の横綱碑などで有名な富岡八幡宮や縁日などで賑わう深川不動尊があります。
「どうぞ、復職出来ますように」と、横目でお参りしながら会社にいきました。
以前は営業でしたが、障害者でパソコンを使った仕事は内部統計関係しかないと考え、無理にお願いをして部署を変えてもらいました。
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女房がスーパーの赤札堂へ買い物をして待っているのに落ち合って帰ることもあったし、会社の帰りに雨が降って来ると、女房が迎えに来てくれていました。
幸せな時代でした。
300bpsの音響カプラや電話ホンを買い、アスキーだったのか、マイクロソフトだったのか忘れてしまいましたが、入会してIDをもらった際、l(エル)と1(イチ)かわからなくて質問すると、わからなければ両方やってみてくれといわれて、外資系(?)はそんな程度かとぼやいたものです。
会社に出社したり、リハビリや病院、講習や展示会、すずめの会通いなどの忙しい日程でしたが、こうした中からビジネスソフトなどソフト作りの考えが身に付いたものと思います。
しかし、会社で使ったパソコンは、本当に使いづらいものだったのです。
それに幸いなことに、使えるようなソフトが市販されていないかったので、そこが、私の出番であると思っていました。
私としては、復帰の準備は完了していました。
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