昭和60年10月 |
半年位前、馬鹿にしていたものの一つである「会」へ誘われた。
「原宿の会」である。
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「原宿の会」に出席して、「こんなに、仲間がいるんだなァ、みんな、一生懸命に頑張っているんだ。」と感激して家に帰るとき、「私は、原宿迄行くときには介添人がいるが、介添人がいない人は、どうするんだろう」と云うことに気が付いた。
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私の江東区や隣の墨田区、いや、都の東部には、STがいる病院が一つも無いのであるが、患者はいるに違いない。
最初は、五、六人のメンバーで始めようと、「江東失語症の会」(第二回例会で、「すずめの会」と改めた)の準備をやり始めた。
区の障害者福祉センター、深川と城東の保健所、リハビリのある病院、東京警察病院の鈴木先生(ST)などに、会員集めをお願いしたが、思うように集まらなかった。
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発会式の当日、九月十四日、普通で五、六人、最大十人位かと思っていたら、なんと患者会員が十五人も参加してくれたのだ。
江戸川病院の佐野先生(ST)と養育院付属病院の鈴木先生(ST)を始め来賓、スタッフや家族が駆けつけ、合計三十九人になったのである。
会員十五人の内訳は、六十パーセントが六十才以上の人で、最長老は八十才のおばあさんである。
車イスに乗っている人から商売をしている人迄、全然、喋れない人から、少し喋れる人迄、いろいろな状態の人があり、「会」の運営が難しそうな感じがする。
開催場所は、区の障害者福祉センターで開催することが決まり、運営は二、三ケ月に一回開く予定である。
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患者は、始め、子供と同じである。
一歩一歩、崖を昔の自分に、いや、新しい自分に寄じ登って行くのだ。
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関係者の下に、会員とスタッフとが力を合わせて、「言葉の遊技場」を作ろうと思っています。
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