失語症記念館
素敵な人々

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先生の一言

横 田 清空白
千葉県茂原市在住空白

2000年 夏号:

 私は香川県善通寺市の生まれで、魚屋の11人兄弟姉妹の7番目の子。おっちょこちょいで、力もない癖に目立つことが好きで(讃岐弁では「さいあがり」と言う)、おやじからよく怒られた。
 幼少の頃、海水浴に行って、家族が着替えをしてる中、一番先に海に入り、おぼれて他人に助けられた。家族は場内放送を聞きながら、私は泳げないので、まさか私だとは思わなかったそうである。
 小学校4年の時、銀行、歯医者、ダンスホール等に火のついた花火(2Bの爆薬)を投げ入れて、お客が驚く様子を見て興奮した。後で警察が来て事件になり、おやじに思いっきり殴られた。校長先生からは「本校始まって以来の恥」と言われて泣いたが、学校中で評判になり、私は友達に得意満面で一部始終を話す始末。
 中学校では、大勢の生徒の見ている前で、2階の校舎から番傘を2本広げて飛び降り、足をねんざした。
高校では、柔道部に入り、また2年で応援団に所属。(3年の春には甲子園で副団長)体格も出来上がり、不良の仲間に入って、まるっきり勉強はせず、ケンカもよくやったし恐いものはなかった。
 3年の時、新任で男の英語の先生が赴任して来たが、事あるごとに授業の邪魔ばかりした。ある時授業中にいたずらをしたら、「ちょっと来なさい」といつもと違う様子。全く気にしないでついて行ったら、先生は涙を一杯ためて、「私も学校をやめるから君もやめなさい」と強い調子で言った。余りの激しさで返す言葉もなかった。先生は本当にやめる気だった。  
 その後は「これではいけない」と真面目に反省し、向学心に燃え、成績もどんどん向上した。英語で良い点を取ると先生は嬉しそうにして、クラス全員の前で「よく出来ました」とおほめの言葉。そうすると目立つことが大好きな私は益々勉強するようになった。
私は今、高校の教員(病気をしてからは県情報教育センターに勤務)をしているが、先生の言葉は私の一生を決めることになった。
 あの一言がなければ、私の人生はどうなっていたか分からない。  

全国失語症友の会連合会「言葉の海」2000年夏号 第68号 掲載

左手とパソコン

2002年 春号:

 私は商業高校の教員で、昭和48年から汎用コンピュータを生徒に教えたり、県総合教育センターで汎用コンピュータとパソコンを県内の小・中・高校等の教職員に教えていました。その後、県教育庁で県情報教育センターの設計・建設の仕事をするなど順風満帆に見えましたが、平成2年11月に脳動静脈奇形による脳出血で倒れました。

ポートレート
横田さん

 右マヒで、それと同時に失語症を併発しました。1桁の加減乗除等が出来ない学力となりました。翌年の4月から1年間休職しましたが、復職を前提に身体と能力を取り戻すのに必死でありました。
 ひら仮名・カタ仮名の五十音をノートに書きましたが、思い出さない文字があって(思い出さない文字はまちまち)、虫食いだらけの五十音表が来る日も来る日も出来て本当に参りました。
 パソコンは「回復のてっとり早い方法」ではありましたが、ローマ字変換(たとえば「か」はKAと打つ)も思うように行かないことも日常茶飯事でありました。元来右利きなのに左手しか動かず、手が痛くなるので病院で作ってくれた左手用の装具をはめて打ち続けました。私が執筆したパソコン用の高校教科書も半分位しか意味が分からず、自信喪失の毎日でありました。
 しかし休職中の半年を過ぎたあたりから記憶も徐々に戻ってきたし、またパソコンの世界は日進月歩で新しく覚えたことも沢山ありました。
 復職は、設計・建設の仕事をした県情報教育センターであり、また教職員にパソコンを教えることになりました。
復職して1年間は、県内の学校(教員)の学習指導案をデータべース化するのが私の主な仕事で、失語症の私には幸いでした。温かい上司と同僚が私の周りにいました。段々と会話が出来るようになり、2年目からはパソコン研修講座に講師の補助者としての仕事がありましたが、失語症と左手の私には職員一人一人が協力してくれました。昨年3月末定年退職をしました。
 ところで最近のパソコンのキーボードはCtrl(コントロール)とAlt(アルト)が左右に付いていますが、これ以前に購入したものには左側のみで、パソコンがマウスやキーボードに反応しない状態で固まった時(フリーズもしくはハングアップ)、CtrlとAltとDelete(デリート)を三つ同時に押して「プログラムの強制終了」から抜け出さなければならず、Deleteは手が届かないので、誰かにやって貰うこともよくありました。それ以外は、複数のキーを同時に押すことで「ある機能が実現するショートカットキー」とか、「ユーザ補助の固定キー機能」をよく使用しました。
Windowsは便利な機能がいっぱいありますが、フリーズとかソフトによってはマウスとキーボードを同時に操作する等の動作は、片手ではどうにもならない場合がよくありましたが、何とか自分で工夫して解決したものもありました。  
 今は連合会事務局会議、千葉県域失語症友の会協議会、市原市失語症友の会の活動と、ボランティアですがパソコンのIT基礎講座教室(難しいのはあまりよく分かりませんので)を自宅で開き、地域・町内の皆さんとゆっくりと楽しみながらマイペースで生活しています。やっと自分流の生き方が出来つつあります。

 平成11年「全国失語症者のつどい千葉大会」の「千葉県失語症者のつどい実行委員会」はその役目を終えて発展的解散になり、代わりに12年より「千葉県域失語症友の会協議会」を発足させて今日に至っております。  

全国失語症友の会連合会「言葉の海」2002年春号 第75号 掲載

  

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最終更新日: 2004/9/19