横浜へのご招待
藤井 大至

横浜に本拠をおく私たち横浜長者ライオンズクラブから、あなたに この横浜へのご招待をいたします。
横浜にまつわるいろいろの情報を発信したいと思いますが、まずは横浜誕生の経過やら、紀元前の横浜市の姿をご覧ください。

その1;東海道の宿場に、なぜ横浜宿がないか?

 徳川家康によって創られた東海道53次は、その後 広重の浮世絵などによって日本橋から京師まで広く知られるようになったが、神奈川・保土谷・戸塚という名はあっても、横浜という名は出てこない。
 江戸末期の参勤交代の路線を見ても横浜の地名は出てこないが、それはなぜだろうか。
 その頃の横浜は、街道筋からは海のはるかかなたの横に長い砂州のような浜辺だった。歴史街道ガイド「東海道53次を歩く」(児玉幸多監修・講談社刊)を見ると、生麦事件で有名な生麦村から神奈川台・青木町・浅間町を経て保土ヶ谷に至る街道で、江戸末期の浮世絵を見ても横浜は神奈川宿から渡し舟に乗るか、野毛の切通しから山手の裾を回っていくしかない極めて不便な小村であった。
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 横浜の地名は、1854年(安政元年)アメリカ極東艦隊ペリー提督との間で日米和親条約締結の地となるなど、一躍脚光を浴びるようになった。 これまで鎖国を続けてきたわが国は、1853年 ペリー来航によって浦賀沖で開国を求められ、アメリカ大統領の国書を授受した後、翌年の安政元年1月15日に再び来日して、この横浜村が、条約締結交渉の地となり、3月3日和親条約が締結された。
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 米国は、その後 江戸に近い東海道神奈川宿を開港場として要求したが、幕府は少しでも遠い横浜を主張して、時の大老 井伊直弼の指揮の下、横浜港開港建設に踏み切った。
最初に紹介した浮世絵は、初代歌川広重描く。東海道は左下から右へ進み、右端で回りこむように上へ伸びていて、横浜村は はるか海のかなたにある。(「東海道と神奈川宿」より)
 1859年(安政6年)6月2日開港に向けて,埋め立てから港湾建設、外人居留地造成の工事が急ピッチで進められ、それまでは、武蔵国・久良岐郡横浜村という半農半漁の100戸足らずの海の砂洲にある横浜村に住んでいた住民は、このあおりを受けて山手の麓に
ペリーの横浜村近辺の海図 水深測量がすごい
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強制移住させられ、そこを元町(元からの町)と名づけた。
 埋め立てられた外人居留地は、四周を水で囲まれ、居留地とつながる吉田橋と前田橋のたもとに関所が置かれて、内側は関内、外側は関外と呼ばれるようになった。
その後の国際貿易港としての発展、新橋・横浜間の鉄道開通などは、皆さんのよくご存知のところ。 

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