その2;ペリーの日本遠征記 の中の横浜

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 ペリーは、「日本遠征記」((株)オフィス宮崎 翻訳編集・栄光教育文化研究所刊)の中で、「時のアメリカ大統領から『絶対に大砲を撃ってはならない』と厳命されて来たこと、友好を目的としていたため沢山の土産品(たとえば、サイズダウンした実際に走る蒸気機関車モデル・鉄道レールの見本・電信機・植物の種など)を持ってやってきたこと。しかも、子供しか乗れない蒸気機関車に大の武士がまたがって、ぐるぐる周回しながら一向に降りようとしなかった話、一マイルの長さに張られた電線を通して一瞬のうちに話が通じる電信装置を見て、びっくり仰天した話など、アメリカ側からの話として、一読の価値があると思う。
 伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門も、日記に「異人、麦畑の中に幅3尺のはしごをいくつも並べて埋め、60間(約100メートル)の輪をつくり……」と、当時の模様を書いている。
 この遠征記は、ペリー提督が旗艦ミシシッピー号に乗って、1852年11月アメリカ東海岸を出航(当時は まだ太 
ペリーの似顔絵(県歴史博物館)
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幕府とペリーの条約交渉の場
(開港記念資料館)
平洋航路はなかった)、大西洋を南下し、アフリカケープタウンを回ってインド洋経由、浦賀に翌53年6月 姿を見せた後、翌54年3月 日米和親条約締結を終えてアメリカに帰るまでの大統領への報告書である。日本での幕府(将軍をエンペラーと呼んでいる)との交渉経過・江戸末期の日本人への観察・横浜村での名主との交流など、今では信じられないような日本の姿が紹介されている。

  A4版変形サイズ3巻の大著で、各巻約400〜500ページあるが、2〜3巻は植物をはじめ自然科学中心の記述で、ペリーの植物コレクターの面目躍如たるものがある。横浜関連記事だけを約80ページにまとめた縮刷版が、小松商会(рO45−662−0863)で¥750で頒布されている。

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