失語症記念館
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第10回言語について

神戸大学医学部保健学科
 関 啓子

2005年8月:

 お盆を過ぎても神戸ではまだまだ厳しい残暑が続いていますが,それでも蝉の声や風の吹き方に夏の終わりを感じます。蝉の声といえば,東京から神戸に移ってきた7年前,蝉の鳴き方にも「方言」があると感じたことを思い出します。蝉の種類が違うので鳴き方が違うのだけのことですが,出勤しようと一歩家から出たとたんに東京とは明らかに違う蝉の大合唱に包まれると,もうそれだけで暑さが倍増するような気がしたものです。おそらくアブラゼミの一種だろうと思いますが,その鳴き声はまるで芝生散水用のスプリンクラーのようでした。生まれ育った土地を離れて,その春単身で神戸にやってきたばかりの私には,蝉のこの「方言」は鮮烈な印象でした。蝉たちは「私の言葉がわかるかい?あなたはこれからこのまちでこの方言を聞きながら暮らしていくんだよ。大丈夫かい?」と私に問いかけてでもいるように思えたのです。
 希望と期待を胸に着任して4ヶ月,私の気持ちは張り切ってはいるものの,慣れない土地での生活へのとまどいや不安も混ざりあった,なんとも複雑なものでした。ですから,私は自分の気持ちを蝉の鳴き方の中に反映させて聞いていたのではないでしょうか。今の私は相変わらずの単身生活ですが,神戸の言葉にも文化にもすっかりなじんでいます。大阪弁と神戸弁の違いを聞き分けることもでき,自分でもかなり上手に神戸弁を話すことができるまでになりました。不思議なことに,蝉は同じように鳴いているはずなのに,今の私にはあの時感じた「方言」への違和感はありません。

 8月下旬のこの時期は入試ウィークです。すでに専門家としての免許を持ち3年次編入を希望する人のための編入学試験,社会経験を経て新たな志を抱き大学1年からの再出発を希望する人のための社会人入学試験,さらに学部レベルの勉強を終了しさらに大学院での研究を目指す人のための大学院入学試験が行われるのです。試験科目は専攻や領域によって異なりますが,共通しているのは外国語,小論文,面接など言語の理解と表出が鍵となるような科目です。入学試験の問題を作ったり,作成された問題のチェックをしたり,面接に関して事前準備をしたりする中で,私は言語について思いをめぐらせました。そこで,今回は言語について取り上げたいと思います。

 第1回で少しふれましたが,言語相対性仮説は私にとって大変興味深い説です。これは,用いる言語の違いでその世界観が異なることを報告した研究者の名に因んでサピア・ウォーフ仮説としても知られています。サピアとウォーフはそれぞれアメリカ・インディアンの社会に入り,その言語が自分たちの言語とは様々な面で違うことを発見しました。そして,用いる言語が違うと周囲の環境をどう認識するかも異なってくることを報告したのです。
 私たちは言葉を単なる伝達手段だと思いがちです。しかし,言語は伝達の手段にとどまらず,思考の手段でもあるのです。つまり,私たちは「言語に与えられている基本的方向に沿って現実を切り取り,言語によって世界を認識している」(ウォーフの言葉)のです。
 たとえば,ホピー語には「水」を表す言葉として,海水や滝などのように動きのある水を意味するものと,コップの中の水のように静止している状態の水を意味するものの二つがあるそうです。また,イヌイット語では「降っている雪」や「積もっている雪」などのように,「雪」を表す言葉が状態の違いに応じて20種類以上あるそうです。日本語でもブリのような出世魚や痛みの状態の表現にはたくさんの言葉があります。一方,英語では「水」,「雪」,「魚」,「痛み」を表す言葉は一つです。ある言語である対象について表現する単語が一つだけであるということは,その言語を用いる人にとってそれ以上細かく分ける必要がないということを意味します。逆に,その同じ対象に対して別の言語では多くの単語があるということは,その言語を使う人にとっては対象を区別して認識する必要が日常的にあると考えられます。ウォーフは「言語によって世界を認識する以上,人が世界をどのように捉え理解するかは使用する言語によって当然異なる」と述べています (Whorf, BL: Science and linguistics, Technology Review 42:229-231, 1940)。つまり,同じものを見たり聞いたりしているのに,そのものに対する認知(認識や思考)はその人が用いる言語によって異なるというわけです。上述の蝉の声もスプリンクラーのようだと考えるか,別の何かと考えるか,さらには雑音と考えるかは,言語の違いによるということなのかもしれません。
 最近,石原都知事がフランス語の数の表し方について批判的な発言をしたため,ちょっとした騒動になりました。確かに,フランス語の数え方は私たちが慣れ親しんだ十進法だけでは理解しがたい奇異なものです。69までは調子よく数えられるのですが,70は60+10と表現し,80は4×20となり,さらに97になると4×20+10+7という具合に,十進法と二十進法が混在しているからです。だからといって,フランス語が「数が勘定できない言葉」であるわけでも,「国際語として失格」であるわけでもないのは明らかです。それがフランス語で考える「数」というものの数え方なのです。
 私はスペイン留学中に似たような経験をしました。小さい子に名前を聞かれて「ケイコよ」と答えると,「ええ!なぜ女なのにケイコなの!?」と驚かれたのです。スペイン語は他の多くのヨーロッパ言語と同様に名詞に性の区別がある言語ですので,女性名詞は「ア」で,男性名詞は「オ」で終わるのが普通です。固有名詞の場合は必ずしもその原則通りではないのですが,仮にそれに従うならば,男性の名前は「アントニオ」,女性の名前は「マリア」のようになるはずです。ですから,質問者は私の名前を「ケイカ」とするか,あるいは少なくとも「オ」ではない音で終わらせるべきだと考えたのでしょう。日本語では到底考えもつかないような問題を小さなスペイン人の子どもから指摘されたことは,私にとって大変印象深い思い出となっています。

 言語相対性仮説ですべてを説明できるわけではなく,これは単なる仮説にすぎません。また当然のことながら,失語症者が思考できないと言っているわけでもありません。ただ,この仮説は「日本語で考えないで,英語で考えなさい」などとよく言われることの一つの根拠として意義があるように思います。「日本語で」考えるときには,私たちのものの考え方は日本語に依存し,日本語の世界観に制約されてしまいます。日系アメリカ人の私の叔母が「シャワーを浴びる (take a shower)」ことを「シャワーを取る」と言っていたのを思い出します。これは英語を日本語に直訳してしまったためのちょっとした間違いにすぎません。しかし,叔母の日本滞在中に,日本語で話している時でも英語で考えたことを直訳していると感じることが度々あり,そんな時そこに表された考え方はまさにアメリカ的だと思ったものでした。同様に,日本人が英論文を書くような場合には,「日本語で」考えてからその内容を英訳してしまうと思わぬ制約を受けることがあるかもしれません。いい論文を書くためには,最初から「英語で」考え,英語を母国語とする人が理解できる考え方で論理的展開をすることが必要なのかもしれません。

  

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最終更新日: 2005/08/26