失語症記念館
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第12回もし

神戸大学医学部保健学科
 関 啓子

2005年10月:

 このところさわやかな秋晴れが続いています。7階の西南角に位置する私の研究室からは,明石大橋と淡路島,そして海の上を行き交う船がよく見えます。私の自宅から見るライトアップされたポートタワーも大変すばらしいのですが,一日の大半を過ごす研究室からの眺めは,四季折々に変化し,一日の中でも時間帯ごとに異なる魅力を見せてくれます。
  私は海と山を同時に楽しめる神戸の風景が大好きです。風景だけではありません。神戸の食べ物も神戸の文化も神戸の人も,今では神戸での生活のあらゆる面に愛着を感じています。もし,7年半前に神戸大学に移るという決断をせずに生まれ育った東京にとどまっていたら,今私が感じているような思いを神戸に対して持つことはなかったでしょう。

 人生にはたくさんの岐路があります。私たちは過去を振り返ってたくさんの「もし・・?」という思いを持ちます。私の最大の「もし」は33年前にさかのぼります。あの時,一人の失語症者に出会わなかったら,私の人生は全く違ったものになっていたに違いありません。大学で言語学を学んでいた私は,授業で失語症について聞き,もっと深く知りたいと思いました。そこで,あるリハビリテーション病院の許可を得て泊まり込みで言語のリハビリテーションの様子を見せてもらっていた時に,ウェルニッケ失語の患者さんに出会ったのです。   日本語らしくは聞こえるのにほとんど意味がくみ取れない言葉の数々を聞き,真面目な顔でやりとりをしているのにほとんど会話になっていない不思議な場面に接し,自分の言葉が相手に通じていないことに全く気づいておられない様子を見て,私は非常に強い衝撃を受けました。この方のこの症状をなんとかよくすることができるならその仕事に私の人生をかけたい,という気持ちでした。大げさな表現をすると,自分の使命とでもいうような運命的なものを感じたのです。こうして私は言語聴覚士になり,それ以来この仕事に打ち込んできました。そして,失語症のリハビリテーションに対する私の思いは今でも変わることはありません。もし,あのときあの方と出会わなかったら,私は言語聴覚士になっていたかどうかわかりません。

 失語症者とご家族にとっての最大の「もし」は,おそらく発症にまつわることでしょう。「もし,あの夜あんなにお酒を飲んでいなければ・・」,「もし,あれほど忙しくしていなければ・・・」,「もし,もう少しきちんと薬を飲んでいたら・・」などと,失語症になった原因を詮索して後悔した経験をどなたもお持ちではないかと思います。多くの場合,失語症は何の知識も準備もないところに突然降りかかり,その後の人生をすっかり変えてしまうほどの影響力を持ちます。ですから,「もし失語症にならなければどんなによかっただろう」と思うのは,ごく自然な気持ちだと思います。
 しかし,誰も過去に戻ることはできません。私たちは現在に生きており,未来に向かって進んでいるのです。建設的な意味で「もし」を発するのでない限り,過去に引きずられて今を生きる生き方は前向きとはいえないと思います。難しいことではありますが,すでに起きてしまった過去の出来事について,その事実はそのまま受け止めつつ,その後どうしていくのかを考えるという態度が必要だと思います。それを専門用語で「障害受容」と言ったりしますが,表現はともかく,「障害の存在を認め,それに正面から向き合うこと」は非常に重要だと感じます。最近の研究でも心理的・情緒的安定が失語症の回復に欠かせないことが指摘されています(Code C et al. The emotional impact of aphasia, Semin Speech Lang. 20:19-31, 1999)。家族(特に配偶者)や周囲が失語症者がおかれた状況を理解し,力を合わせてこの事態を乗り越えようとするとき,それぞれの心理的・情緒的安定が得られるのではないかと思います。
  最近,アインシュタインが言ったというこんな言葉を知りました。「Learn from yesterday, live for today, hope for tomorrow. The important thing is not to stop questioning.(昨日から学び,今日を生き,明日に希望を抱きなさい。もっとも大事なのは,問い続けることである)。」なかなか含蓄なある言葉だと思います。

 今回をもって「研究室から」という私の連載を終了したいと思います。1年前にこれを始めたときは,失語症に関連した話題をあれもこれも取り上げたいと意気込んでいましたが,なかなか言い尽くせずに最終回を迎えてしまいました。もし,1年前に綿森淑子先生のご紹介で後藤さんと出会わなかったら,このような機会はありませんでした。毎回拙い文章ではありましたが,私なりにその時々の思いを述べることができたことを心からうれしく思い,後藤さんと読者のみなさんに感謝しています。皆さんのご健康とご活躍を神戸から祈っています。

  

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最終更新日: 2013/02/17