あっと云う間に一年が過ぎてしまいました。いろいろ勉強できました事、心より感謝しています。ありがとうございました。
神戸からの海は素晴らしいものと・・・、約37年前から5年間大阪に赴任し神戸にも何回か行きましたし、数年前には横浜の海の見えるマンションにいた私にも目に浮かぶようです。
今後共、ご健康とご活躍をお祈りします。 第12回「もし」を中心にした読者の読後感を載せました。
失語症記念館館長 後藤卓也
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広島市 井上正徳さん
病後一番私の頭を過ぎった言葉でした。入院中は、「もし」ばかり考えていました。しかし、その反面そう思うことから逃げ出したかったのは事実です。そのため障害と言うものを素直に認めたことから生きようと思ったのかもしれません。それ以後は、どうすれ
ばいいのかと考え、自分の身の回りを利用する事を考えました。
先生の載せている「アインシュタイン」の言葉、よく思い出しました。人生の中で本当にいい言葉と思います。
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千葉市 森川隆二さん
発症から7年目に入りましたが、 『もし』 はなくなりました。
身体的な障害の受容は割りと早く出来ましたが、言語に対する受容には可成りの時間が必要でした。
私に関わってくれたSTには、どのような感謝の言葉を言っても言い尽くせません。大田先生が言われた『最初に出会ったSTは、一生手放すな』です。
今 『もし』 を言うなら、友の会に出会っていなかったらです。
友の会で仲間に会えなかったら、今の自分はありません。
発症前の63年より、発症後の6年の方が充実した人生では?
その様に思える様になった最近です。
私なりには 『失語症有り難う』 です。
重度の患者さんや、ご家族の皆さんには、不謹慎な発言に聞こえるかもしれませんが、私に残された人生はそう長くはありません。
残された時間を、仲間たちと楽しく生きたいと思っています。
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熊本県 松岡孝一さん
「33年前、失語症者に出会われたからに出会わなかったら、私の人生は全く違ったものになっていたに違いありません。」といわれるように、STはなかったかもしれません。
私も、「もし,あの夜あんなにお酒を飲んでいなければ・・」、「もし,あれほど忙しくしていなけれ・・・」、「もし,もう少しきちんと薬を飲んでいたら・・」などと、失語症になった原因を詮索したこともありましたし、「もし失語症にならなければどんなによかっただろう」と思ったこともありました。
ただ、少し、「ことば」も良くなかった頃から、なかなか厄介な病気ですが「失語症と仲良くしながら…」でいくことにしたいと思うようになりました。 そうすると、今まで以上に、何でもやろうということになりました。最初は、私は「失語症者」ですから、といっておりましたが、最近は、「失語症」を忘れてし
まったように、「失語症」をいわなくなってしまいました。
『障害の存在を認め,それに正面から向き合うこと」は非常に重要だと感じます。』と先生がいわれるように、私は、常に「失語症と仲良くしながら…」と思っておりますので、かえって良かったのではないかと思います。 最後に、アインシュタインの「昨日から学び、今日を生き、明日に希望を抱きなさい。もっとも大事なのは、問い続けることである。」の言葉を教えていただき、ありがとうございました。 私も、いつも、「青春(サムエル・ウルマン)・詩」のように「青春」のつもりでいこうと思っていましたが、もう一つ良い言葉をいただき、進めていきたいと思っています。
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札幌市 谷川 弘治さん
私のところの例会で、第5回「隠喩と失語症」を読んでいる最中です。最終回の「もし」までは、少し時間が掛かるかも知れませんが、楽しみにしております。
関啓子先生には、札幌の中村記念病院のSTをやっていて、「北の会」の創立にも、ご存じだったなんて、不思議な縁です。
私も中村記念病院を退院して、創立当時監査役だったのです。それ以来ですから、20年来です。長い間「北の会」に居ましたので、この際、どなたかに会長役を譲りたいと思いますが、なかなか引き受けてくれません。
北海道と言っても札幌に居なければならないので、その点が不便です。どなたが良いか、STの力も借りたいと思います。どうか宜しくお願い申しあげます。
私いま70歳ですので、それよりも若い人が良いと思います。
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千葉県茂原市 横田清さん
「建設的な意味で「もし」を発するのでない限り,過去に引きずられて今を生きる>生き方は前向きとはいえない・・」
分かりますが、あの当時は「何で私が・・・」というばかりで、未来はありませんでした。
だから理論上は言えますが、どうしても前向きにはなれませんでした。
「・・すでに起きてしまった過去の出来事について,その事実はそのまま受け止めつつ,その後どうしていくのかを考えるという態度が>必要・・」
それが分かったのは3年を過ぎたあたりでした。
「全国失語症者のつどい長野大会」を初参加をして、同じような仲間が堂々と発表するのを見て、「これではいけない」とようやく私も変化し始めました。
本当に何かの「きっかけ」があれば、元気を取り戻すことも出来ます。
今思えば私は3年で転機点が来ました。(早いか遅いは別にして・・)
しかし失語症者の方で、何かの「きっかけ」がないまま、一人淋しく、苦しみながら、生きる張り合いを失って悶々とした毎日を過ごす人も大勢居ます。
私もこの一人でした! 本当にあの時は苦しかったです!
大したことは出来ませんが、この地区で「ひばりの会」を立ち上げたのは、楽しく、お互いに励まし合って、「生きる張り合いを感じる会」にするためです。今全力を挙げて頑張っています。
今は関先生の理論が素直に胸に響きます。どうも有難うございました。
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横浜市 後藤卓也
最終回に「もし」を書いていただき、自分のことを云われたような気がしました。
利き手交換とはいいますが、仕事を右半身マヒの人間に合わせてする事はなかなか難しいものです。
「大事なのは,問い続けることである(The important thing is not to stop questioning.)」
いつも20年間行っていることは、パソコンでめしを食べようとしていました。現在も、ソフトを作る方法を更に更にマスターしようと行っています。
この歳になっても・・・。
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私は思うのですが、「きっかけ」はあちこちに転がっているようです。
そういうことを「失語症記念館」の「素敵な人々」に書いたものがありますのでご覧ください。
http://kinenkan.info/inpaku/kank/kank9.htm
私も約20年ちょっと前に、「すずめの会」を立ち上げたのも横田さんと同じような考えで、約9年間会長を行っていました。
その間、第5回の全国失語症者のつどい東京大会では総合司会を勤めましたのが思い出です。
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みなさんそれぞれに苦しい思いをされてきたことを感じました。
その苦しい経験を経てみなさんの今の明るさ積極性があるのだなと思います。みなさんに心からの声援を送りたいと思います。 神戸大学教授 関 啓子
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