失語症記念館
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第2回 ありのままの姿

フリージャーナリスト
 安田容子

2006年04月:

・「なんなんだよ〜」
  新緑の美しい季節になってきましたね。父と散歩に出かけるには、ちょうどいい季節になりました。
  母がまだ元気だった頃、父は毎日のように小一時間かけて、母と家の周りを散歩していました。失語症の父は右足に装具を付け、左手で四つ足の杖をついて、そろそろと一歩ずつ黙々と歩きます。父の傍らには、いつもあちこち眺めながら、ゆっくり歩調を合わせて歩く母の姿があったものです。二年前その姿がなくなってから、父はなかなか歩いてくれません。
  その日は私と散歩に出かけることになりました。母がまだ元気だった頃ですから五、六年前のことでしょうか。
  父は廊下をそろそろと黙々として歩いています。転ばないように付き添っていた私は、居間にいた母に伝えることがあったのを思い出して言いかけたのですが、さて、言葉が出てきません。
「えっ〜と、お母さん、あれよ、あれ」
「あれって何よ」
「だから、えっ〜と、あれよ」
「あれじゃ分からないでしょ」
「だから、あれだってばぁ〜、あれよ、あれ」
  そのときです。黙って歩いていた父が、突然、大きな声をあげたのです。
「なんなんだよ〜」
「ええっ、いや、あの、そのぅ〜〜」
  虚を衝かれてあわてる私に、母の笑い声が聞こえてきました。
「ハハハ、失語症はどっちなの」

 私の言葉が出なかったのは、物忘れです。年相応の。父に「なんなんだよ〜」と言われて、その後で必死に思い出しましたから。
  父は失語症です。「はい」とか「そうそう」とか「痛い痛い」とか、簡単な言葉しか出ません。会話も「これなに」「ああ、そうか」と二回しか続きません。
  しかし、失語症というのは、言葉は出なくても頭の中では理解できているのです。それを言おうと思ったときに、その言葉が出ない、あるいは別の言葉が出てしまう、ということになるのです。
  そうは分かっていても、父が何を言いたいのかこちらがよく分からないときは、やっぱり父はこちらの言うことが分かっていないのではと思うこともしばしばです。
  父は私が「あれ、あれ」と言うばかりで、イライラしていたのでしょう。黙っていても、しっかり私と母の会話を聞いて理解していたのです。
「なんなんだよ〜」と父が言ったあまりのタイミングのよさに、改めて父はちゃんと分かっているのだと思い知らされました。
「あれ、あれ」と言う私の物忘れは年々進み、父にはチャンスはいくらでもあるのに、残念ながら、あれ以来、父が「なんなんだよ〜」と私に言ったことはありません。

・声が出た
  今では片言でも言葉が出ますが、脳梗塞で倒れて2、3か月、父は一言も発しませんでした。こちらの言うことは分かっているようにも思えるのですが、確信が持てません。失語症というのは、このままずっと何も話せないどころか、声もまったく出てこないのだろうかと、不安になりました。
  秋も深まったある日曜日、弟が病室から父を車椅子に乗せ病院の屋上に連れて行ったときのことです。エレベーターが屋上に着いてドアが開くと、乗ってくる人とぶつかりそうになり、少し乱暴にガタンと下ろすと、父が「おおッ」と大きな声を上げたのです。
「えっ、お父さん、声が出るの」
  思わず私は母と顔を見合わせました。久しぶりに聞いた父の声に感激です。
  それから弟が父に、「あっちが家の方角だよ」「こっちが駅の方だよ」と説明するたび、父は頷きながら「おおッ」とか、「ああ」とか、声を上げています。
「ヘェ、お父さんはちゃんと声も出るし、分かってもいるのね」
「これならきっとそのうち言葉も出てくるわね」
  母も私も期待がふくらみました。
  失語症はその人の脳の言語野が受けた損傷の程度によって症状が異なるということを、私たちはまだよく分かっていませんでした。
  それからしばらくたったある日の事です。私は一階で車椅子に乗った父と一緒に、病室へ戻るためエレベーターを待っていました。病院の玄関を入ったすぐ横なので、たくさんの人が待っています。
  一人の中年の男性が、父の車椅子の横を通って乗ろうとしました。すると、父が突然、スッと指をさして、「おおッ」と小さく声を上げました。私にはまったく見覚えがない人です。その人も父に気づかずに、通り過ぎようとしています。すると、また父が、「おおッ」と、小さく声を上げました。父がこの男性を指しているのか、違うことを言いたいのか、父の顔を覗き込んだのですが、特に表情は変わっていないのでよく分かりません。しかし、私がジロジロ見たせいか、その男性はふとこちらを振り向きました。そして、いぶかしげに父の姿を見ていたかと思うと、「ああっ」と今度はその男性が大きな声を上げました。
  父が昔勤めていた職場で父の部下だった方だそうで、お見舞いに来てくれたのでした。
「それにしてもよくそんな昔の人のことが分かったわね」
後から母に伝えると、二十年以上も前のことをしっかり覚えている父に驚くばかりでした。「これならきっともう少ししたら失語症は直るわね」
  直らないかもしれないという不安がある一方で、母と二人でますます期待をふくらましたのでした。
  その頃、図書館や書店で失語症に関する本を探したのですが、数冊しかみつかりませんでした。失語症の人が書いた本を読んでいたので、これだけ昔の記憶がしっかりしているから、いつか父も言葉が出て、字も書けるようになるかもしれない、いや、なってほしいと祈るような気持ちだったのです。

・ご近所に挨拶
 父の入院があまりに突然だったので、ご近所の人たちは大変心配してくれて、会うたびに父の様子を尋ねてくれます。
  しかし、最初は、どうしても本当のことが言えませんでした。右手右足が動かず、言葉がまったく出ない、思っても見なかった父の変わり果てた姿を、私自身がまだ受け入れられていないのに、それをご近所の人たちに伝えることは到底できません。
  ですから、いつも「ええ、なんとか徐々によくなってきています」とあいまいな返事をしていたものです。母も同じように答えていたと思います。
  それが変わったのは、その年の暮れ、お正月休みに外泊が許されたときのことでした。半年ぶりに帰宅した父は、庭に入ったときから目の輝きが違います。
  庭の木や家の屋根、玄関、廊下、居間と、一つひとつ確かめるように眺めながら車椅子に乗って入ってきました。ワンワンとなく犬の姿を見て涙を流して喜び、出迎えた孫たちや弟家族の顔を見て笑う。病院では能面のようだった父の顔のどこにこんな豊かな表情が隠れていたのかと、目を見張るばかりです。
  心配していた家での生活も、「ご飯食べますか」「お茶飲みますか」「寝ますか」というこちらの呼びかけに対する答えは、表情を見ればよくわかりました。
  父が一時帰宅することは、ご近所の人たちは知っていました。一週間以上も家にいるのです。お見舞いに来て下さる方もいるでしょう。あいまいな返事どころではありません。
言葉は話せなくても、記憶も認識も判断もしっかりしている。そこには以前と変わらない父の姿がありました。どんな姿になっても父は父なのです。
  そう思ったとき、私は父と一緒に散歩がてら、親しくしている方たちのお家に、こちらから挨拶に行こうと思いました。
  外は快晴でも、寒い冬です。でも、押し詰まった年の瀬の町の様子に、父の表情は一段と生き生きとしてきます。思い切ってお隣の家の呼び鈴を押します。出て来られたご主人は、一瞬父の姿にハッとしたものの、すぐ「まあ、よくご無事で帰って来られましたね」と父の手を取り、涙を流して喜んでくれました。父も「ええ、ええ」と言いながら、喜んで涙を流しています。訪ねて行った何軒かのお宅でも、みなさん同じように喜んでくださいました。
  父が嫌がるかと心配していたのですが、むしろ積極的にご近所周りをしたいようなのです。もう帰ろうとすると、父が反対の方向を指さします。そのまま車椅子を押して行くと私の知らない家の前まできて表札を指さします。恐る恐る呼び鈴を押すと、そういえば顔だけは見たことのある男性が出てきました。その方も涙を流さんばかりに喜んでくれたのでした。
  父は言葉は話せなくても、記憶も認識も判断もしっかりしている。失語症というのはどういうことか、このとき少し分かったと思います。

・家の真ん中に
  翌年の二月、つごう入院生活八ヵ月、その間、病院を三回変わり、いよいよ父が退院してくることになりました。
その前に、父のベッドをどの部屋に置くかが問題でした。ベッドとポータブルトイレを置き、車椅子が動き回れるスペースがありトイレも近いとなるとなかなか難しく、あそこだここだと、弟たちと私がワイワイ言い合っていると、母が言いました。
「それなら、この居間の南の端にベッドを置いたらどう。そうすれば、お父さんは庭も家に出入りする人も見えるし、私もお台所しながらお父さんの様子を見ていられるでしょ。いつも皆なのいる場所が、いちばんいい場所なのだから」
 居間は台所と続いていて、来客もあります。いくら何でもそこにベッドを置くなんてと、私たちは考えてもいなかったのですが、さすが母です。父のベッドは、家の中でいちばんいい場所に置かれることになったのです。
 以来、家に来る人は誰でも父の姿を見ます。父もそのたび、この人は誰だったかと思い出すことになり、話しかけられれば答えるので、いい刺激になったのではないかと思います。以前とは違った姿になっても、家でも外でも、ありのままの父を見てもらおうとしたことは、家族としてよい方法を取ったのではないかと少し自己満足もありました。
  しかし、よく考えてみると、いちばんショックを受けたはずの父が、自分を受け入れ、誰にでも臆することなく自分のありのままの姿を見せ、自分なりの生活をしてきたことがいちばんすごい事だったのだ、と思い至りました。

  

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