失語症記念館
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第3回 父の挑戦

フリージャーナリスト
 安田容子

2006年06月:

■早い回復
  父の退院が決まった時、8カ月ぶりに父が家に帰ってくるのは本当に嬉しいことでした。でも、不安もいっぱいです。
  父は、右手はきかず、右足は装具をつけ杖をつけばかろうじて歩けるという身体です。そして、言葉はほとんど出ません。
  ベッドは居間に置くと決まったけれど、家の中を改造する必要があるのか、食事やトイレはどうすればいいのか、何よりどうやって意思が通じるのか。お医者さんも看護婦さんも、理学療法士も言語聴覚士の先生もいない中で、家族だけで果たして父と生活していけるのだろうか、心配の種はつきません。
  すると、退院まぢかになって、リハビリを担当していた内科の主治医と理学療法士の方が一緒に我が家を訪れてくれました。手すりをどこにつけるかなど安全面を点検し、食事やトイレ、入浴など、毎日の暮らし方はどうなるのか、家の中を見て回って、最後に主治医はこう言いました。
「まあ、わずかな距離なら何とか歩けるでしょうが、車椅子で移動する生活になるでしょうね」
  ところが、退院して数日後には、父はべッドから食卓まで4、5メートルの距離を装具と杖で歩いたのです。それから1、2週間すると、今度はトイレまで歩けるようになりました。
  ベッドや椅子から立ち上がるときや、トイレでは介助が大変でしたが、父がこんなに早く自分で歩けるようになるとは、思ってもいませんでした。父も自分で動ける範囲が広がり、自信がついたようで、歩こうとする意欲が感じられます。身体的な障害については、父の回復力というか適応能力が高く、意外に早く元の暮らしに近い生活パターンができました。

■ 木を見て森を見ず
  しかし、言葉の障害は、そう簡単には回復しません。
父は何かを言いたいのでしょうが、言葉は出ません。ですから、とにかくこちらから聞かなくちゃという気持ちが強く、「お父さん、起きましょう」「ご飯にしますか」「おいしい?」「トイレに行きますか?」などと、次から次へとこちらから話しかけていました。でも、睡眠、食事、排泄という日常生活の基本的なことくらいしか聞けません。
  それでも、父から「はい」という声が聞こえると皆で大喜びし、にっこり笑ったりうなずいてくれるだけでも、ああ、ちゃんと分かっているのだと安心できました。
  でも、私は父がおとなしく「はい」と言うたび、何だか私たちに遠慮しているようでかわいそうに思えてしまい、「うん」とか「そうだな」とか今までのように言ってくれればいいのにと思いました。病院にいたときは「はい」と答える状況だけだったからなのでしょうか。
  問題は、「はい」ではなく、父の口からポッと言葉の一部分だけが出たときです。それまでの話の流れから類推できるときはいいのですが、できないときは、その音一つひとつに反応して、これは何を言いたいのだろうかと、考えたものです。
  「われ・・・」という音が父から発せられると、「我々のこと?家族のことかしら」と私が聞けば、「割れるじゃないの?お茶碗何でも割ったことあった?」と、母や弟たちがわいわい言い出します。すると、歯がゆく思ったのか、父は「あがぁ・・・」と口に出します。「上がる?」「あがく?」「あれ?」と、私たちはまた勝手にああだ、こうだと推測して、がやがや言います。父も私たちもお互いイライラをつのらせるばかりでした。
  失語症は、必ずしも思っていることがそのまま言葉として出るわけではないということなど、知らなかったからです。桜とわかっていても、「菊」と言ってしまうことがあったりするのだそうです。
  また、失語症の人には、話すまでゆっくりと待つ。こちらから話しかけるときは、ゆっくり、はっきり話す。一つの話題に対して順々に範囲を絞って行って、言いたいことを見つけ出していく。
  そういう会話の仕方をまったく知らなかった私は、生来の早口のまましゃべり、言いたい言葉が出やすいようにと、父が言いだす前にあれこれ関連する違うことをポンポン投げかけていました。私だけでなく、母や弟たちも父を混乱させることばかりやっていたわけです。
  言葉になっていない言葉で私たちがよく理解できないのはわかるでしょうが、明確な言葉だから分かるということでもなかったのです。それが、「痛い」という言葉でした。
  ベッドで寝ていた父が、急にお腹を押さえて、「痛い、痛い」と騒ぎだしました。
「えっ、お腹が痛いの?」「どこですか?」母と二人であわててお腹をさすります。すると、余計に「痛い、痛い」と大きな声をあげます。
「食べ過ぎたのかしら?お腹をこわしたのかしら?」と、またお腹をさすっていると、その手をはねのけ・・・「尿意を催している」と言いたかったのでした。それなのに、私たちはお腹を押さえていたのです。手をはねのけられるわけです。
  夜、寝間着に着替えてもらおうと裸にしたときも、急に「痛い、痛い」と言いました。今度は別にどこを押さえてもいません。「背中?腰?」「それとも右手が痛いのかしら?」母と二人であわてて体中触わります。
  すると、その手をはねのけ・・・「寒い」と言いたかったのでした。それなのに、私たちは冷たい手で体を触わりまくっていたのです。
  それから、父は身体的な異変を感じると、痛いわけではないのに、「痛い」と口にすることが分かるようになりました。
  分からない単語の一部にしろ、「痛い」にしろ、私たちはその目先の言葉だけにとらわれていたわけです。父にしたら、「もっと状況をよく見てくれよ。注意深く考えてくれよ」と思っていたに違いありません。「木を見て森を見ず」だったのです。
  父は自分がいくら言ってもわかってくれないとなると、今では大声を上げたり、手を振り上げる格好をしてみたりして、「自分は怒っているぞ」という感情を露わに表現します。
  でも、その頃は「ああ、分かってくれないのだ。これ以上は無駄だ」と言ってるかのように、もう何も言わなくなり、視線を下げ、すっと顔から表情が消えて行くのでした。
  そんな父の姿を見るにつけ、何とか父が自分から言いたいことを言えるように、私たちがよく理解できるようになりたいと思うものの、どうしたらいいか焦るばかりの日を過ごしていたのです。

■シビン“事件”
 そんなときに“事件”が起きたのです。
「ちょっとこれ見てよ」
  もう9年前になる、ちょうど今頃、梅雨入り前の頃でした。夕方、帰宅した私に、母がいつもシビンを立てて入れて置く、籐で編んだ細長い籠を差し出して見せたのです。
  籠の中には濡れないようにビニール袋が入れてあります。その袋をのぞくと、薄い黄色の液体が半分くらいまで入っています。「何かしら?」と思って覗き込んでいると、母が笑いを押し殺しながら言いました。
「お父さんのオシッコよ」
「ええっ、どういうこと!」
 母の話はこうでした。昼下がり、父が気持ちよさそうに寝入っていたので、今のうちにちょっと用件を伝えて来ようと、庭づたいにある弟夫婦の家に出かけたそうです。15分もしないで帰って来たら、父がベッドに起き上がって腰掛けてるい後ろ姿が見えたそうです。
「あら、大変。お父さん、起きてしまったんだわ。でも、一人でちゃんと起きることができるのねって、驚いたのよ」
「ヘェ、びっくりね」
「でもね、それどころじゃなかったのよ。もっとすごいびっくり。お父さん、パンツを脱いで、下半身丸出しで腰かけてたのよ」
「ひぇぇ〜」 思わず私はのけぞりました。
母が、「いったいどうしたんですか」とあわててきくと、父は左手でベッドの脇に置いてあるシビンの籠を指さし、局部を押さえる真似をしたそうです。そして、「ああ、ああ」と声を出し、左手で籠を取って自分の前に持って来る格好をしたと言うのです。
「だから、てっきりオシッコだと思って、シビンを取ろうと籠を見たのよ。そうしたら、シビンがないじゃない。あら、どうしてシビンがないのかしらと思いつつ、中をのぞくと・・・・これだったのよ」
  びっくり仰天した母は、そのとき、朝、シビンを洗ったまま、いつものように籠に戻すのを忘れていたことを思い出したのでした。
「それで、お父さんに聞いたのよ。オシッコがしたくなって起きたけど、誰もいないので、シビンを取ろうとした。でも、シビンがない。それで仕方なく、籠の中にしたんですねって」
  そう母が言うと、父は「そう、そう」と言ってうなずき、うれしそうに笑ったそうです。
「お父さん、すごいじゃな〜い。偉いですねぇ」
  私は心底うれしくなって、父をほめちぎりました。
  すると、今まで黙って母と私の話を聞いていた父は,ジェスチャーをしながら、事の顛末をまた最初から話し始めたのです。
  左手を額にかざしてあたりをキョロキョロ見回し、頭を左右に傾ける。
「ああ、探したけれど、お母さんも私もいなくて、困ってたのね」
そう私が言うと、「うんうん」とうなずきます。そして、お腹を押さえて「ああ、もう我慢できない」という苦しそうな顔をします。
「お父さん、そりゃ、苦しかったでしょう」
  父のこんなに豊かな表情は今まで見たこともありません。迫真の演技に、母と私は笑い転げました。すると、父はますます演技に磨きをかけ、籠を取って持ち上げ、体の前に持ってきます。目を見開き、やるぞという決心の強さの程を表現しています。
  いよいよその中へと決心した、クライマックスの場面に差しかかったときでした。
「よし、やってやろう」
 はっきりした言葉が、思わず父の口から飛び出したのです。
「えっ、今、ちゃんと言葉が出たわね」
 母と私は思わず顔を見合わせました。
 父が自分で自分の言いたいことを言ったのです。
自分で起き上がり、状況を判断し、対応策まで考え、さらにそれを再現して見せてくれました。そして、「よし、やってやろう」という言葉まで出たのです。
  母も私も感慨ひとしおでした。
  今、父の言いたいことがうまく分からず,私が一人でイライラしたり、怒ったり、途方に暮れてしまうとき、あの日の父と母と三人で笑い転げた楽しさを思い出すのです。
  自分の思いが伝わった喜びは、父もどんなに嬉しかったことでしょう。そして、今その思い出を語り合う母がいない寂しさを、父も私と同じように感じているに違いありません。

  

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