失語症記念館 失語症と風景
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夕暮れ時に思い出す

言語聴覚士 吉田 真由美
国立水戸病院

2001年07月: 1/8頁

 ここに通うようになってもうどのくらいの年月が流れただろう。1週間に一度、数時間だけここへ来て、失語症の患者さん達と会う。その数時間を患者さんの頭数で割っての面談であるからほんのわずかな時間である。言語治療と呼べるほどのものではない。そして患者さんそれぞれに私との面談に対する要求の中身は様々である。
 一般的に私達は昨日から今日になるように、今日が終われば明日が来ると、その連続性を疑いもしない。ある日突然、病に倒れ、意識が戻ったときには半身が麻痺していたり、話が思うようにできなくなるということ・・・。失語症のほとんどは突然にその日常が断ち切られるところから始まる。


 彼はじっと外を見ていた。確か先週も今頃の時間に廊下のその窓のところに立っていた気がする。
「Yさん、何が見えるのですか?」驚いたような顔をして振り向いたのは一瞬のことで、すぐに彼はいつもの柔らかなほほえみを見せた。
「Yさん、窓の向こうに何が見えるのですか?」今度は幾分ゆっくりめの口調で、少しジェスチャーを加えて言いながら、一緒に彼の横に立ってみた。
そこは駅からそう離れてはいないものの眼下には美しい田園が広がるリハビリ病院の3階であった。彼は自分が眺めていた方向を左手で静かに指さした。
「あれ?っ、もしかしてあれは駅南のスーパー?あらあ、ここからあんな所まで見えるんだー」そこまで言って、気が付いた。確か彼の住所があのスーパーの近くだったことに。
「わかった。Yさんのおうち、あの近くでしたね。Yさんのお・う・ち」私が両手で三角屋根のジェスチャーをしながら言うと今度は大きな笑顔でうなずいた。でもその目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 車を運転しながら、ずっと彼の目に浮かんだ涙が脳裏から離れずにいた。そういえばまだ1回も外泊していないなあ、きっと家に帰りたいのだろうなあ。彼は毎日夕暮れ時になるとあの窓から自宅のあるあの方角をずっと見ているのだ。黙ったまま、夕暮れに染まるその風景を暗くなって見えなくなるまで・・・。来週、病院に行ったら彼の外泊のことを婦長さんに相談してみよう・・・そう考えたら少し心が軽くなった。


 Yさんは、大手銀行を定年退職された60歳代になったばかりの方だった。現職時代は、役付だったと聞いたが、長身で穏やかな品のある笑顔の彼は、さぞかしスーツが似合ったことだろう。趣味は読書と書いてあった。特に歴史物が好きだったそうだ。

失語症と風景
失語症と風景

その2
その2


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最終更新日: 2001/07/15