失語症記念館 失語症と風景
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失語症の風景:22

私が一時野球通だったわけ

言語聴覚士 吉田 真由美
フリーランス

2021年03月

  とっても古い話。私がまだSTになって間もない頃のこと。Mさんは、身体がとても大きくて、その小さな目はいつも優しい光を帯びて笑っていた。彼が心臓由来の脳梗塞を発症したのは、3人目の子供がまだ奥さんのおなかにいるときだった。
 幸い麻痺は無かったものの、重度の失語症になってしまった。
 Mさんは、元巨人軍の選手だった。怪我で引退を余儀なくされたが、名作巨人の星にも彼がモデルとなった人物が出てくる。星飛雄馬が2軍落ちしたときに、飛雄馬のボールを受けた「壁」と呼ばれたキャッチャーとして。これは、彼の主治医に聞いた話だ。マンガと本人よく似てる。
 その頃はバブル全盛だったから、2軍選手の彼でさえ、毎晩銀座を練り歩いていたらしい。スポーツ選手などと言うものは体格も規格外だから、スーツはすべて仕立物だそうで、しかも、ど派手なスーツが30着以上あるという。銀座ならOKだろうが、地元の田舎ではとても着られたものではないが、捨てるなと言うので、一部屋スーツでつぶされていると、きれいで鷹揚で素敵な奥様がため息をついた。
 彼は全く言葉が出なくなり、状況判断と、単語レベルのことばと文字を頼りに、実に上手にコミュニケーションを成立させていた。ジェスチャーがうまい。時に絵を描く。表情が又豊かで「んーん?」「はぁー」「あ??」程度の発話のみでイエスノーがわかる。
 彼の実家は裕福だったので、話ができなくなった彼のために、少しでも暇潰し兼小遣い稼ぎにと、バッティングセンターを父親が建ててくれた。ところが優しくて面倒見の良い彼は瞬く間に野球少年団の子供達の噂の的になった。バッティングセンターに行くとでっかくて、しゃべれないおじちゃんが、フォームを直してくれるんだ。そうすると、不思議に良く打てるようになるんだと。というわけで、そこそこお客さんにも恵まれた。
 そして、春と秋の甲子園の県予選が始まると、いつもスポーツ紙を数紙持参してくる。彼の顔は赤から黒に変わっていく。毎日自分で下馬評をつけ、球場巡りをしているのだ。言葉は全くもって重度の障害であったが、動作性という運動機能や認知機能は大変良好に保たれていた彼は、自分で運転もしていたので、父親や妻にバッティングセンターを頼んで好き放題だ。
 それでも言語治療は休まずに来て、今季の有力選手は誰なのか、そしてどこが素晴らしいのか、詳細に私に伝えてくれる。これだけ入力ルートも出力ルートも限られている彼が、どうしてこんなに克明なリサーチができるのかその頃の私はただただ驚くだけであった。ちょうど、取手二高から常総学院へ名将木内監督が移籍した頃だったが、木内監督の子供達への指導方法や彼が移籍でいくらもらったか、彼の奥さんが何をやっている人でどんな苦労をしたか、こういった女性週刊誌に喜ばれるような内容も詳細に私に教えてくれたのだ。まだ新聞などにも話題にされない時期に彼が、すごいのがいる!と名指しした球児が数名プロ野球選手になった。
 晩年になり、突発的な単語が口から飛び出すようになったが、相変わらず、重度の失語症のままだった。それでもみんなから愛され、数度の再発に見舞われながらも、末娘が産んだ孫まで見て、美しい奥様とこれまた美しい三姉妹に囲まれて天国へ旅立っていった。
 Mさんは生きるエネルギーがとても強かった。そして障害と共存しながら生活をとても楽しんでいた。スポーツ選手としての才能や体格に恵まれたのに心臓がそれに追随しなかった。でもそこで価値観を上手に変えて、又人生を楽しむ余裕のあったMさん。彼の周りにはいつも笑顔があふれていた。しなやかな精神力の持ち主だったと今思う。

失語症と風景
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最終更新日:2021/04/15