失語症記念館 失語症と風景
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失語症の風景:4

秘密の時間

言語聴覚士 吉田 真由美
国立水戸病院

2002年08月

 全失語と言ってもそれは聞く・話す・読む・書くといったモダリティが障害を受けて今まで使っていた共通言語がうまく出し入れできなくなっただけのことであり、知能の低下や他の症状を合併していなければ急に言葉の通じない外国での生活を強いられてしまって途方に暮れてしまった状況によく似ている。

 Oさんは中学の社会科教師であった。年齢は50歳くらいであったろうか。もとより無口で1人の時間を好んでいたという。右手は全く使えなかったが、歩行は短下肢装具を着用しての杖歩行で自立している。
 言語訓練に通い初めて1年半がたった頃、奥さんから相談を受けた。
「ここのところ、お父さんの散歩の時間が長いんです。先週も出掛けてからなかなか帰ってこないので心配していたら、3時間近くして帰ってきたんですよ。」
 Oさんの家は農村地帯である。いつもの散歩のコースは1時間もあれば十分で、立ち寄るような知人の家もないという。何をしていたのかと聞いてもニヤニヤするだけで埒があかない。それからはまた1時間くらいで帰って来ていたのだが、昨日やっぱり3時間の散歩になったという。しつこく聞くとむっとした表情になり自室に引っ込んでしまった。加えて洗濯をしようとしてズボンのポケットを探ったら、レシートが出てきたという。
 「先生、あの人はお金なんか持っていないんですよ。一体どうしたんでしょう。何をしているのかしら。このままにしておいて良いのでしょうか?」奥さんの持参したレシートには300円と記されている。
「大人じゃないですか?話せなくても判断力なんかはしっかりしてるから大丈夫だと思うけど。悪いことはしてないんじゃないの?勝手にさせとけばいいじゃない?」こんなコメントしたところで、奥さんが納得するはずもなく私がOさんから3時間の散歩の理由を聞くことになってしまった。

 Oさんは最初は非常に重度の失語症であったが、少しずつこちらで言っている言葉が理解できるようになり、簡単な文字も分かるようになってきた。しかし運動性の失語が強く残っているので、口から出る言葉はほとんどない。
 「Oさん、なんか秘密作ったんだって?奥さん、奥さんが、心配、心配してる。・・・秘密ってなに?。散歩の時何をしたの?」ノートにキーワードを書きながら話を進める。彼の瞳にいたずらっぽい光が宿った。
 Oさんの話を整理すると、この頃大分頭がはっきりしてきたので自分の部屋の片づけを始めたという。いろいろと片づけているうちに通勤していたときの背広のポケットから3000円が出てきた。いつもの散歩コースを少し外れると小さな喫茶店があり、そこに思い切って先週その3000円を持って入ってみた。
「ええーっ?だってOさん話せないのにどうやってメニュー頼んだの?」Oさんはちょっとはにかんだようにニヤッとした。
最初は、他のテーブルで何か飲んでいる人を指さしたという。そうしたら紅茶が出てきた。昨日はメニューを見てコーヒーを指さして頼んだらしい。ケーキもあることを昨日発見したので、次回はケーキを注文してみたいと考えている。また、その店のウエートレスの女の子が優しく対応してくれるのも気に入ったらしい。
「すごーい、すごいねぇ。じゃぁ、まだ残りのお金もたくさんあるわけだ。あと何回行けるかな。」私がOさんのノートに残金とコーヒー代を書いて見せると真剣な目つきで覗き込んでいる。
「とっても素敵なことだけど・・・奥さんが心配しているし、それにこれからも行ってケーキなんかも食べるとしたらお金すぐに無くなってしまうよ。だから奥さんにこの話をして定期的にお小遣いもらうようにしたら、堂々と行けるじゃない?」『定期的なお小遣い』と引き替えにOさんはこの秘密の時間を奥さんにばらしても良いと言うことになった。ウエートレスが可愛いということは内緒にするという約束のもとで・・・。

 それからほどなくOさんは電車を3区間乗ってバスに乗り換えて言語治療に1人で通院できるようになった。奥さんは車で送ってくる方が安心だと言ってはいたが、おかげで彼は行動範囲を大幅に広げられることになったのだ。きっと彼の秘密はどんどん増え続けているに違いない。1年後彼の言語治療は終了した。毎年年賀状に左手で庭に咲いた花々を描画して送ってくださる。
 幾つになってもやっぱり秘密を持つことは楽しいものだ。

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最終更新日: 2002/08/21