失語症記念館 失語症と風景
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失語症の風景:5

私の嬉しかったこと 2000年

言語聴覚士 吉田 真由美
国立水戸病院

2002年08月

 6年前の共通一次試験の前日に一人の女の子が病院に運ばれてきました。ストレッチャーに乗せられたその子はまだ意識があるらしく、放射線科の廊下で、「いたい、あたまが痛い」と小さな声でうめいていました。
 その子は19歳。明日の試験に向けて1年間一生懸命勉強をしていたまじめな予備校生でした。早稲田の瀬古さんにあこがれて、早稲田に入るべくずっと頑張ってきたのでした。早稲田の陸上部で、マネージメントをするのが夢でした。予備校の先生にもこの成績なら大丈夫と太鼓判も押されていたのでした。
 「くも膜下?まだ、子供じゃないの。うまく助かってくれるといいな」と運ばれていくストレッチャーを見ながら思ったのを今でもはっきりと覚えています。
 彼女に次に会ったのは、脳外科病棟の個室で、しかも2ヶ月後でした。こちらで言うことはほとんど通じず、彼女の言いたいことも周りに通じないという状態で、予後について
「若いので回復の度合いはよいと思いますが、言葉が出にくいとか、字の読み書きができないなどの後遺症が強く残ることもあります。今の段階では、何とも言えません。大学受験はあきらめてください。」
というような厳しいことをお母さんに話しました。お母さんの顔は表情が無く能面のようでした。お母さんが実はとても表情が豊かな人だというのが判明したのは、それからしばらく経ってからのことでした。
 元々頑張り屋でしっかり者の3人姉弟の長女の彼女は、言語の訓練もとても頑張りましたが、脳動静脈奇形のために起こったくも膜下出血は1回の手術では収まらず、そのあとも水頭症のシャント術などのために1年の間に10数回の手術を受けることとなり、そのたびに色白の彼女の体にはチューブやメスの跡が残っていくのでした。
 自宅退院して外来通院になっても記憶の障害のために約束したことを全て忘れてしまうので、しばらくの間は、ずっとお母さんが付き添っていました。言葉の方は順調によくなってきましたが、日常生活の細かいことが難しい、右側の視野欠損のために混雑したところが歩けない、記憶をとどめておけないなど一緒に暮らしてみないとわからないような目に見えない日常での困ったことがぼろぼろ出てきました。しかし、彼女の人柄もあると思うのですが、周囲には理解者が多く、整体治療院での簡単な受け付け事務のようなアルバイトを始められるようになりました。日常生活の中で少しずつ回復を見せてきた彼女は、だんだん基礎的な言語訓練は必要なくなってきたのです。
 この頃の彼女の1番の問題は、傷ついた心をどうやって癒していくかということでした。
 学歴の壁と青春。進学校だった彼女の友達は今やほとんど大学生。大学に行くことが彼女の人生の今までの最大目標だったのに。
「何か専門学校でも行きたいと思う」
「試験があるのはちょっと難しいかも」 と私は彼女の夢を壊すことばかり言わなければならない。
 二十歳を過ぎた彼女は、世間でいえば恋愛適齢期でもあり青春していなければいけません。ところが
「恋人は作れない。結婚はしない。」
と言います。なぜ?と聞けば
「こんな傷だらけの体、誰にも見せられない」
私の前ではぼろぼろ涙をこぼします。
「お母さんにも言ったの?」
「お母さんの前では言わないし、泣かない。心配するじゃない。」
とまた泣くし。彼女の涙を前にして私は途方に暮れ、心の中でぽろぽろ泣いていました。
「どうしたらいいの?彼女の感じていることもわかるし言うことももっともだし、でもこのままじゃいけないよ・・・」
 経験の少ない若い娘さんに、愛とは結婚とはなんていくら言葉を並べても全てが薄っぺら。見た目ばかりが大切じゃないってことは、いろいろな経験をして初めて体感できるもので、小説や漫画の中での恋愛を夢見ていた勉強少女には納得できるわけもありません。
「でも親はいつか年とってしまうんだから、自分の人生を作らないと。お母さんが死んだらどうするの?」
「一緒にお棺に入って焼かれる。」
さすがの吉田も「・・・」
 それからしばらくの間、何か彼女の人生観を変えてしまえるようなことがないかとずっと考えていました。彼女が倒れて2年がたったころでした。
 私は、結構この頃も海外にはずいぶん行っておりました。家人におんぶに抱っこの旅ではありましたが。ちょうどそのころ、東京の遠藤尚志先生率いる失語症海外旅行団のスエーデン行きが計画されていました。パリとストックホルムの8日間の旅だったと思います。
「そうだ思い切って海外に連れて行って日本の常識が世界レベルで見れば常識ではないぞって、わかれば視野も広がるんじゃないかな?これは私も長期で休むいい口実にもなるかな?」高邁な気持ち40%、旅行に行きたいという打算40%、残りは、勢いだったかな?
 でも若い彼女を連れて行くためには経費を安く抑えたいし、もっとたくさん外の世界を見せてカルチャーショックを与えたい。私一人では面倒見切れないので、仲間を募集しないと。そして彼女のご両親を説得。何せお金のかかることだから。ずぼらな私は、やっぱり計画の大部分を家人に頼ることになりました。感謝しております。
 期間は16日間で、ストックホルムでの交流会に合流したあと、フランクフルトへ飛んで、ミュンヘンまでバスに乗ってロマンテイック街道を楽しんで、ミュンヘンから国際電車に乗って、ヴェネチアに入り、フィレンツエ、ローマと観光して、デンマークに1泊して帰国。そのころの病棟婦長と医局の秘書さんがこの話に乗ってくれたのは、本当に助かりました。彼女ばかりではなく、あとの二人も海外では失語症だったけれど本当によくやってくれました。彼女のご両親は、とても不安だったと思うけどすんなりと心配しながら彼女を旅に出したのです。(このヨーロッパの旅に関しては来年にでもまとめてみたいと思っています。乞う御期待!!!)私は帰国したとき、眼光鋭く、上腕に力瘤がしっかりと根付き、体重2s減という事実がこの16日間の苦労を物語ってくれていました。
 彼女は16日間のうち前半の記憶はほとんど無いと言っていました。しかし、確かにこの旅のあと彼女は変わったと思います。自分の知らない世界がたくさんあるらしい、自分の知らない世界にまだまだ楽しいことがあるらしいと体感したからでしょうか?
 その後、就職もしましたが、職場での業務内容やスピードについていけず、つらい思いもたくさんしました。努力もしました。でもそのたび、彼女は前向きに頑張ってきました。
 就職するとか、ボーイフレンドができたとか、彼女が何かしら転機を迎えるとき、必ず私のところに顔を見せます。私たちが、この仕事をしていて本当によかったと思える一時です。
 その彼女が
「報告があります」と昨日病院にやっぱりひょっこりと姿を現しました。彼女の背後には、先だって
「彼ができたんです」と報告に一緒に来た彼が立っていました。
「結婚することになりました。」
その一言を聞いたとき、涙が出そうになりました。
「えっ!あなた長男なの?埼玉に連れてっちゃうの?」
「はい、連れてっちゃいます。すみません。」
「お母さん、寂しくなっちゃうじゃない」本当は私が嬉しくて、でも寂しくて涙が出てしまいました。
彼女が選んだ人はそれは誠実そうで、優しくて。彼女を見つめる彼の目が十分それを物語っているのでした。
「大切にしてよね」これは言葉になりませんでした。大人になった彼女の笑顔を見ているうちにこの6年間の思い出が走馬燈のように頭の中によみがえってしまい、式には喜んで出席しますとだけ言って、そそくさとその場を離れてしまったこの頃涙もろい私です。
 今年は5月に野生のワニを見るためにジャングルに行けたことがとても良かったと思っていたのですが、ここに来て私の宝物である若い失語症患者さんだった娘さんが一人は結婚してもうすぐママとなり、今回の彼女はこれから結婚するっていう報告に来てくれて、野生のワニを大きく飛び越えて私の今年の嬉しかったことナンバー1,2になってくれたのでした。

 本当に嬉しい。               おわり
        
                      2000年11月28日

失語症と風景
失語症の風景


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最終更新日: 2002/08/28