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△△さんはニコニコ笑って頷いている。
「でも先生、こんにちはくらい言えたって・・・」
「犬とか猫はこんにちはって言わないじゃないの?」
「そりゃもちろん言わないさ、言ったら気持ち悪いでしょう。」
「でしょ?犬や猫にはこんにちはなんて器用に言う器官が備わっていないのよ。△△さんもあれだけ大きな脳梗塞起こしてこんにちはって言う場所がだめになっているのに、これでぺらぺらしゃべったりしたら、それこそ、怖いよ?倒れたときに主治医の先生から、死ぬかもしれないって言われたでしょう?」
「言われました。あの時はもうどうしていいかわからなくて・・・」
「棺桶に両足は突っ込んでたと思うよ。もしあの時死んじゃってたら、今年は新盆でしょう?けんかもできないのよ?今なんかしゃべれないなんて言ってもしっかり夫婦でけんかしてるんだから、ちゃんと相手が癪に障ることやってるってわかってるんでしょ?つまりお互い言いたいことがわかってるんじゃないの?」
「そういわれればそうかもねぇ。」
「△△さん達はたとえお父さんが話せなくたって以心伝心、深い愛で結ばれてるんだから、気長にリハビリしてちょうだい。」
「深い愛だってぇ、やだねぇ先生は!」こうしてにこやかに帰っていくのである。でも又何週間かしたら同じ事を言う羽目になる私。これも心の安心料の一つかな。
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10月になってもYさんの単調な入院生活は続いていた。毎日おびただしい数の文字をノートに書き連ねている。しかし、何かを見なくては自分の住所さえも書くことが難しい。それでも勤勉な毎日の勉強が功を奏したのか、読解力の方は少しずつ改善してきて、新聞などの拾い読みができるようになってきた。奥さんは相変わらず自信がないと繰り返すだけで、退院準備を考えているようには見えなかった。10月の連休に1泊2日で外泊したが、その時も息子達が泊まりがけで見ていたらしい。奥さんだけでも十分見られると思うのにというスタッフの声も少なくなかった。
ところが、11月になると急に退院の話が進んだのである。Yさんは「ありがとうございました」「どうも」などの言葉が口から出るようになっていた。この言葉は、リハビリ病院では、付き添いや家族に必ず「ほら、ありがとうは?」「お父さん挨拶をしなくちゃあ」と患者さん達は毎日幾度となく強制的に言わされる言葉の一つである。だから私はリハビリ場面でのこの言葉があまり好きにはなれない。
でも退院前の最後の言語訓練の時、「1ヶ月に1度くらいは顔を見せてください。Yさん、今まで本当にご苦労さまでした。」と私が言った時、
「ありがとうございましたあ。」とそれは嬉しそうに大きな声で言ってくださったのを今でも覚えている。本当に当人が心から発してくれる「ありがとう」の言葉は嬉しい。誰から強制されるではなく、そして、その感謝の気持ちが言葉として発せられることがないにしても、その目に、その表情に、歩き方に首の振り方にみんな出てくると思う。それらは全て「ありがとう」の言葉そのものだと思う。 |
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