失語症記念館
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 Yさんの住む地域は田園と果樹園が広がる農村地帯である。田圃のすぐ脇に大きな川も流れている。心配になったご主人は田圃の方まで探しに行った。脳の病気をすると夜騒いだりすることがあると聞いたことがあったが、訳が分からなくなって外へ行ってしまったのだろうか。雨の勢いは変わらず、川も増水している。不安が大きくなるばかりであった。あたりが白み始めた頃、川岸にうずくまったいるような固まりが見えたので急いで近くに寄ってみると果たしてそれはYさんであった。
 雨に濡れそぼった小さな体は冷え切っていたが、目は遠くを見つめて、それでも一心不乱に川の方に向かって何か言葉にならない声で、唱えていたという。いやがって泣きじゃくる彼女を息子と2人で抱えて自宅に戻り、どうにか服を着替えさせて布団に寝かせたが、食事もせず眠らず泣きながら拝んでいるという。
 「先生、あれは字が書けないんでしたよねぇ。書いでみろって言っても普段字が書けないもんねぇ。ところが、あれがぎっちりなんか手の中に握りしめているんで、無理矢理取り上げてみだら、くしゃくしゃになった紙にさあ、『死』って一文字書いであんだよ。俺らびっくりたまげじゃったんだわ。死にでえんだっぺかね。」
 長い入院生活から実生活に戻って頭もはっきりし、また病識がしっかりしたことで、急に現実の中に引き戻され病前と今とのギャップを突然たくさん背負い込むことになって心がぱんぱんになってしまったのだ。目の前のご主人は疲れ果ててうなだれている。
 「精神科に診せだほうがいいのげ?気が違ったわけではないのげ?」
今も家の布団の中にいるが目を離せば仏壇の前に行き一心不乱にその『死』と書いた紙を握り締めて拝みだすという。家には息子のお嫁さんが留守番しているというので、電話をかけてみることにした。すぐにお嫁さんが出た。
「こんにちは、お母さん電話口に出られるかなぁ。」
「ちょっと待ってください。すぐに電話持っていきますから。」みんな困ってる。廊下を走る音と共に遠くから私の電話のことを告げる彼女の声が聞こえてきた。幸いにどうにか受話器に耳をつけてくれたらしい。第一関門突破。
 「Yさーん、聞こえる?吉田ですよー。」
 「おうう、おおーっ・・・」受話器から彼女の嗚咽が聞こえてきた。まだまだ聞き取りの力が悪いので、長い言葉や言い回しでは、わからなくなってしまう。失語症の方との電話は顔が見えないと本当に難しい。
 「どうしたぁ、Yさん泣いてるの?」言葉にならない声で泣いている。
 「心配して、お父さんが言語室に・・・言語室だよ!言語の私のとこへ来たんだよ。わ・か・る・か・な?」
 「ようく、聞いてねぇ。」

その1
その1

失語症と風景
失語症と風景

その3
その3


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最終更新日: 2001/11/11